David Goodis について

   デヴィッド・グーディスは1917年、フィラデルフィア生まれの米国の作家です。一般にはフランソワ・トリュフォーの『ピアニストを撃て』の原作者としてもっとも有名だと思いますが、ハメットやケイン、ウールリッチ、チャンドラーらと並ぶハードボイルド/ノワール小説の重要な書き手です。私もトリュフォーによる映画版とその原作(Down There)でしか彼を知らなかったのですが、最近、代表作の一つである『キャシディの女』(Cassidy’s Girl)を読んでこれが非常に面白かったので、この本と作家について簡単な紹介記事を書いておこうという気になりました。

   1917年生まれということからも分かるように、グーディスは上述のハードボイルド系作家たちよりはやや年少世代に属しており、作家活動の開始もやや遅い(まぁもともと遅咲きのチャンドラーはちょっと例外ですが)のですが、実は彼の経歴はハードボイルド/ノワール文学の興亡とほとんど一致しています。具体的に言うと、ニューヨークを拠点に雑誌で生計を立てていた「パルプ・マガジン時代」(1939年〜)、ハリウッドで脚本家として活動しつつ、ハードカバーで作品を発表した「ハリウッド映画時代」(1946年〜)、そして故郷フィラデルフィアに隠居し、実家で孤独に作品を書き続けた「ペイパーバック時代」(1950年代〜)です。このように、グーディスはハードボイルド/ノワール文学の草分けとなったパルプ雑誌の黄金時代末期に作家活動を始め、戦後はそうした小説を原作とした「ノワール映画」が次々に製作されたハリウッドで脚本家として活動し、安価なペイパーバックの出現によってパルプ雑誌が駆逐されるのと同時にこの新しい媒体で作品を発表していったのです。ちなみに、パルプ雑誌に書いた作品は現在でもほとんど読まれておらず、ハリウッドでの仕事はボツになることも結構多かったりと、やはり彼の魅力は長篇にあるようです。




   で、その長篇なのですが、これまた興味深いことに、彼は生涯を通じてほとんど同じようなテーマで、同じような物語構造をもつ作品ばかりを書き続けました。主人公はたいてい、将来を約束されながらも、何らかの不幸にあって落ちぶれてしまった男です。彼は「運命の女」(ファム・ファタール)に出会い、なんとか人生をやり直せるのではないかと、もう一度夢を見て、現状を変える努力をします。しかし、1939年に発表した最初の長篇小説( Retreat from Oblivion )の書き出し――「しばらくするとすっかり悪くなって、全部やめてしまいたくなる」( “After a while it gets so bad that you want to stop the whole business”)――が象徴するように、グーディスの世界では状況が良くなるということはなく、主人公はさらなる不幸へと突き落とされてゆきます。


   人生の舵取りに失敗し続ける主人公。そこに女性がからみ、マゾヒズム的な関係を築く(これにはグーディス自身の個人的な資質も関係しているかもしれません)。主人公は根っからの悪人ではないし、単に運が悪いだけの善人であることが多く、そこに読者の共感を誘う余地があります。この点では、性根から歪んだ人間ばかりを描いたジム・トンプソンやそれ以降のポスト=ノワール作家に比べると、やはりグーディスはまだ「人間的」な「モダン=近代」な世界を描いてると言えます。


   1951年に発表された『キャシディの女』は、そうした読者の共感を強く誘う、まさに「泣けるノワール」です。キャシディは30過ぎくらいの偉丈夫で、フィラデルフィアでバスの運転手をやってます。毎日、きつい仕事をこなしては、酒場で呑んだくれるような日々を送っている。しかし彼には不幸な過去があり、落ちぶれた生活もそこに理由があります。


   キャシディは大学でエンジニアを学び、優秀な成績で卒業し、戦時中はパイロットとして活躍しました。終戦後はその経験を活かし、旅客機のパイロットとして順風満帆のスタートを切ります。しかし、ある日突然、精神を錯乱した副操縦士が暴れだし、飛行機を墜落させてしまうという事故が起こり、なんとキャシディ一人が生き残ります。副操縦士には病歴がなく、また生き残った証人もおらず、人々はキャシディが罪から逃れるために嘘をついていると糾弾します。そんなわけで、有罪になることはなかったものの、職も信用もすべてを失ったキャシディは、酒に溺れ、喧嘩を繰り返し、やがてフィラデルフィアで経歴を偽ってしがないバスの運転手として暮らすことにしたのでした。


   飛行機事故を起こしたにもかかわらず、バスの運転手をやっている、というのがミソで、彼はバスを完璧に運転することで、なんとなく「自分がまだ人生の手綱を握っているんだ」という安心感にひたれるのです。ここには、「我々は誰しも自分の人生をコントロールしていると思っているが、事故は突然やってくる」というノワール的な世界観が見事に表現されています。

   キャシディには落ちぶれてから知り合ったミルドレッドという妻がいます。これがすごい女で、キャシディが風邪をひいていても知らん顔で飲みにいったり、気に入らないことがあれば殴るは蹴るは引っ掻くは、別の男と平気でいちゃついたり、とグーディス作品に毎回登場するタイプの悪女=ファム・ファタールです。とにかく悪妻なんですが、その姿が「スイカのような胸をしている」とか「ジューシーな体だ」とか言われるように、キャシディは彼女の肉体的な魅力に逆らえないんですね。ちなみに、このちょっと行き過ぎた比喩もグーディスの描く女性にはお馴染みで、そこには彼が1年ぐらいで離婚してしまった奥さんのイメージが反映されているとか言われています。


一番左にいるのがグーディスの妻エレインと言われている。美人ですがきつそうな顔してますね。
そして真ん中のグーディスの人の良さそうなこと・・・。

   で、ある日、このミルドレッドに横恋慕するヘイニーという小金持ちのいけ好かない男とキャシディがトラブルになることで物語は進みます。キャシディのほうは実は、ドリスというやはりトラウマからアル中になってしまった、ミルドレッドとは正反対の細身で従順な女と知り合って、その人と人生をやり直そうと考え始めている(だからタイトルの「キャシディの女」がどちらを指すのかが、実は分からないようになっているんですね)。で、ミルドレッドはそれを知ってブチ切れ、キャシディが這いつくばって許しを請うような目に合わせてやりたいと思う。ヘイニーはミルドレッドに夢中になって、なんとか彼女に振り向いてもらおうと必死になる。ヘイニーのほとんど病気ともいえる執念なんかは、ミルドレッドとの関係で落ちぶれているキャシディの陰画のようにもなっています。だから、読者もキャシディも、なんとか同じ傷を抱えたドリスと一緒になって、ミルドレッドの支配から抜けだして幸せになってもらいたいと思うわけです。


   キャシディがそんなふうにもう一度夢を見始めたところで、悲劇が起こります。なんとヘイニーが酔っ払ってバスに乗り込み、キャシディの頭を殴って事故を引き起こした結果、ヘイニーとキャシディを除く乗客全員が死亡するんですね。ヘイニーはキャシディが朦朧としているあいだに、彼にウィスキーをがんがん飲ませて、警察にウソの証言をします。キャシディには普段の飲酒癖や、過去の記録もあるわけで、誰も彼を信じない。キャシディは仕方なく、警察の隙をついて脱走し、ドリスを見つけて二人でどこか遠くに逃げようとする、という展開になります。


   まぁいかにもノワールといった感じのストーリーですね。それにしてもキャシディが不幸すぎます。途中でミルドレッドも現れて、まぁとにかく恐ろしい女です。しかしこの物語がすごいのは、最後の最後で、思ってもいない方向に話が進んで、「ん?ん?これでいいのか?」と戸惑っているうちに、ジーーンとさせる名場面で締めてしまう、その驚きのラストにあります。若干のネタバレになってしまいますが、そこに私の敬愛してやまない偉大なるジョン・カサヴェテス作品に通じるカタルシスを感じます。


   「カタルシス」という言葉はアリストテレスが『詩学』において悲劇の特徴の一つとして言及した言葉ですが、ノワールが近代社会の悲劇を描こうとするジャンルであることを、グーディス作品ははっきりと示しています。アリストテレスはまた、悲劇の物語上の特徴として、「アナグノリシス」(再認)を挙げています。オイディプスが自分がテーバイの王子であったと知る場面のように、いわば悲劇を通じて主人公が「本当の自分」を知る、という事態を指す用語です。オイディプスの場合はそこで「わい、なんてことしてもうたんや〜」とショックを受けて目を潰し、反省の旅に出てしまうわけですが、「本当の自分」を知ることで背伸びをして生きるのをやめ、楽になれるということもあるものです(ちなみに、私はカサヴェテス作品はそれしか描いていないといっても過言ではないと思っています)。最終章の手前で、キャシディもそのような自己認識に至ります。彼は自分を介抱する友人の女性に向かって、突然「おれは偽善者だ」と言います。

  「その酒瓶をよこせよ」彼はボトルを傾けると、ぐいっと一息に飲んだ。彼はボトルをテーブルの上に置いた。「さて、なんでおれが偽善者か教えてやるよ」
  「あなたは、あなたはそんな人じゃない。そんなことを言うべきじゃないわ」
  「ところがそれが真実なんだよ。おれはただの卑しい虫けらだ。そしてもう一つ本当のことがある。おれがどうしてそこら中で痛めつけられてきたか分かるか?それがおれにお似合いだからだよ。おれは当然の報いを受けてきただけなんだよ」
  彼は再び酒瓶を手にした。大きく一飲みすると、ボトルを持ち上げて、じっと見つめた。「やあ」と彼は言った。
   
  “Gimme the goddamn bottle.” He tilted the bottle and took a very bid drink. He put the bottle on the table. “Now let me tell you why I'm a hypocrite―”
  “But you’re not, you’re not, you mustn’t say that.”
  “I’ll say it because I know it's true. I'm just a low-down louse. And here’s something else. You know why I'm getting kicked around? Because I deserve it. I’m getting exactly what I deserve.”
  He had the bottle again. He took a big drink and then held it up and looked at it. “Hello,” he said.

   レイモンド・カーヴァーの作品なんかを読むとよく分かりますが、アルコール中毒を患うような人生に困難を抱えた人々は、「自分はまだやれる」というようなポジティブな感情から解放されることで、逆に楽になったりします。『キャシディの女』の結末はもう少し救いがあるのですが、グーディスの描くノワール世界というのは概して、「どうしようもない人生となんとか折り合いをつけて生きるしかない」という生暖かい諦観に包まれているように思えます。こう言うとなんだかとてもネガティブに聞こえますが、しかしノワールというものはそもそも、「自分が不幸な目に合ったとしても、どこかにそれを見つめている人がいる」というただそれだけの共感によって人々をわずかに慰める、そんなささやかな希望を抱く芸術ジャンルなのです。



   晩年のグーディスは実家にこもって作品を書き、ときおり外出してはフィラデルフィアの安酒場で飲んでいたようです。キャシディと似たような生活ですね。両親が死んでからは、少々精神を病んでしまい、精神病院に入院中に卒中で倒れて死んでしまいます。フランスでの人気を別にすれば、本国アメリカでは作品もほぼ絶版となっており、彼自身の人生がノワール的な下降線をたどっていったとも言えるでしょう。その心にはなにか孤独なものがあったのかもしれません。しかしその孤独に共感するものがいなかったか、といえばそんなことはなく、「グーディス・コン」に端を発するファンの祭典はいまでは「ノワール・コン」と名前を変え、二年に一度、世界中のノワール愛好家たちが彼の生地、フィラデルフィアへと集まっています(昨年、日本人の中村文則がデヴィッド・グーディス賞を受賞しましたね)。2012年、「アメリカで最良かつ最重要の作品を保存することを目的とする」ライブラリー・オブ・アメリカ出版は「デヴィッド・グーディス」の巻を刊行しました。
   
   現在、日本語で読めるグーディスの作品はほとんどありませんが、『キャシディの女』ぐらいは誰かが訳してくれないかと願っております。

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