絓秀実『日本近代文学の<誕生>』

 だいぶ前にナショナリズムについての記事を投稿した際に予告した通り、その後絓秀実(絓はパソコンだと打てないので、以下はスガ表記で)の『日本近代文学の<誕生>』を読んだ。読んだと言っても、かなりの飛ばし読みですが。
 これは非常に面白い本でした。副題は「言文一致運動とナショナリズム」となっていて、「だ・である」体なのか「です・ます」体なのか、といった文体論が「日本近代文学」の成立とどのように関わっているのかを論じている。 言文一致運動そのものは一時期グッと盛り上がった後に、「まぁそういう細けえことはいーんだよ」というような形で「論争」はなし崩し的に消えていったようだ。
 しかし、スガはこの言文一致運動の中に、「詩」と「散文」の対立、もっと言えば「散文」であらねばならなない近代ナショナリズムの時代の文学が、いかにして「詩=ポエジー」を保持するか、ようするに文学たりうるのか、という問題を見出す。これはまさに、モダニズム文学一般が抱えていた問題である。

 スガの方法論というか、研究書のもっている着眼点やその処理の仕方は、90年代アメリカにおける文学研究の動向とよく似ているなと思った。90年代、とりわけ「複数のモダニズム=ModernismS」を標榜するモダニズム研究の新たな一局面は、それまでの古典的作品の精読を中心とした孤立的・単線的なモダニズム理解を脱して、同時代の文学的には質の劣るとされてきた作品群や新聞、雑誌などあらゆる言説を多読することによって、俯瞰的・越境的・総合的なモダニズム理解を構築しようと勤めてきた。本書もまた、旧弊な「文学的価値」をいったん棚上げにした上で、言文一致運動という大きな言説空間において「文学」や「言語」というものがどのような意味的変質を遂げたのかということを丹念に追跡しようとしている。詩、俳句、散文、大衆小説、女流作家の作品、新聞メディアといったものを縦横無尽に扱いながら「言語」というテーマを真正面から扱う本書を読んでアメリカモダニズム文学研究者の私がまっさきに想起したのが、Michael North の名著、 The Dialect of Modernism (1994) だ。スガの本の初版は1995年。スガはどうも英米の文学研究にはあまり詳しくないらしく、本書でもいくつか「なぜこの概念に言及しないんだろう」と思う部分があったが、逆に言えば、彼の日本近代文学についての問いがそれだけ鋭いものであるということだ。一国の文学について論じながら、その射程が世界的な広がりをもつというのは、批評書としての一つの理想形だと思う。

 とはいえ、英米アカデミズムと日本の文芸批評の違いに起因するのかもしれないが、スガの記述はしばしば非常に曖昧な、レトリカルな晦渋さへと陥ってゆき、門外漢の読者である私は置いてきぼりにされてしまうこともあった。これが彼の先達である柄谷行人なんかだと、ベースががっちりとした英米アカデミズムなために、いくらド=マン流の難解かつレトリカルな議論であっても議論としては常に「明晰かつ判明」を心がけている。私としては、本書が英米的なモダニズム研究の金字塔に十分比肩しうるポテンシャルを持っているだけに、読者を限定しかねないそのような「文芸批評らしさ」が残念に感じられた。

 本書の細かな内容に踏み入ることはしないが、個人的に特に面白かったのは、文体論と精神分析とを組み合わせて近代文学におけるジェンダーの問題に迫る第三章「国民的想像力のなかの『女』」、第四章「『父』の審級」、特に広津柳浪『蜃中楼』における女の一人称の語りを分析した部分。広津や女流作家、漱石の章における「従軍行」のようにおよそ文学的とは目され得ぬ作品が、文学史的なテーマのもとで非常に興味深い事例として分析される様には脱帽するしかない。

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