Wonderstruck と Lady Bird と Roman J. Israel, Esq.

 前回のエントリに引き続き、大学の劇場で鑑賞した映画についてです。ホントは他にちゃんと感想を書きたい映画があるのですが(ジャック・タチとか木下恵介とか)、それらを書くにもかなり集中しないといけないので、とりあえずこちらはざっと鑑賞記録程度に。

 一本目、Wonderstruck はトッド・ヘインズ監督、原作は『ユゴーの不思議な発明』のブライアン・セルズニックの小説。これは先週観ました。
 途中までは結構面白かったんですが、ラストにかけて完全に失速。正直エンディングは苦笑してしまいました。ふだんは拍手の観客も特に無反応。こういう時、観客というのは素直だなと思います。『ユゴー』も思わせぶりな展開はありつつも、テーマを上手く処理しきれず駄作でしたが、そうした欠点は本作にでも同様。Wikiで確認した限り原作をほぼ忠実に映画化しているようなので、ブライアン・セルズニックという人は物語作家としては二流なんじゃないかな、という気も。そうそう、この映画はジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 』にとてもよく似ているんですよ。ちょっと参考にしたんじゃないかな、というぐらい。フォアの作品は、僕は映画版は見てないですが、原作は大衆文学としては一級の出来でした。それと比べてがっかりしてしまったというのもあります。一応、良かったところとしては、無声映画を上手く使った(『アーティスト』を思い起こさせるような)シーン、そこでの20年代の街の風景や文化の描写の忠実さ、他方で現代(70年代)のやはり精密な風俗描写など、あとアメリカ自然史博物館 が重要な舞台になっているところとか。ただ、「ミュージアム」(というか原点である a cabinet of wonder)をテーマにしていて、それを映像においては上手く表現できているのに、肝心のストーリーではあまり重要に思えなかったところが、残念でした。特に、主人公が実の父親について知らされなかった理由とかが、ほとんど意味不明でした。そこがドラマの肝なので、最後まで見終わると「なんだったんだこの話」という気になります。あと、奇妙な偶然が重なり続けることについて、作中で主人公が「一体なにが起きているんだ!?」としつこく口にするので、こんなメタ発言をするからには何か理由があるのかな、と期待していたら、ほんとに単なる不思議なお話だったという・・・。似たような話としては、日本では『ソフィーの世界』で有名なヨースタイン・ゴルデルの『カードミステリー』という作品があって、あれはもっと「宿命」みたいなものを(同じ児童文学なのに)上手く物語化できていました。誰か映画化してくれないかな。

 二本目はグレタ・ガーウィグ監督・脚本の Lady Bird。ここからは今日見た映画です。監督自身の自伝的な映画のようで、たいした話ではないながらもとても良く出来た青春リアリズムドラマでした。田舎出身で、中流ギリギリの貧困家庭に育って、ちょっと都会に憧れたりして、自分の周りを見下したりして、でも本当にイケてるグループには入れない、そういう人にはグイグイ共感できるのではないでしょうか。僕はちょっとそういうタイプではないのですが、自分の姉と母の関係を思い起こさせるような感じで、結構共感できました。途中、主人公の二人目の彼氏になる男が、みんなで集まっているのに一人だけ本読んだり、パーティーの最中に一人で黄昏てたりしていて、そこだけはまんま高校生の時の自分じゃん、と思いました。もちろん今では恥ずかしいと思ってますよ、そういうの。僕の大好きな小説に、リック・ムーディーの『アイスストーム』という、映画化もされたやつがあるんですが(映画版はイマイチ、絶対に小説版が面白いですよ)、それとも似ていて、アメリカのリアルな、等身大の青春とか家族を描いた作品というのはわりと自分の好みなんだな、とも思いました。

 三本目はデンゼル・ワシントン主演、ダン・ギルロイ監督の Roman J. Israel, Esq. これは英語が難しかった!デンゼル・ワシントン演じるイスラエルがコミュ障の頭でっかちという役柄なので、とにかく話し方が回りくどいんですよ。ヘンリー・ジェイムズが喋ってたらこんな感じだったんだろうな、というような。でも話は面白かったし、英語字幕つけてもう一回観たいなー。あと、自分としてはこちらの映画のほうが主人公に共感できました。話の恰好としては、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』なんですよ。イスラエルは法律家、トニオは悩める芸術家ですが、どちらも理想主義のために実人生を棒に振って、でも実は人一倍世俗的なものに対する憧れも強くて、結局そのことに後悔して・・・というところがそっくり。まぁ僕の場合は彼らのような理想主義からは早々に離れましたが、ちょっと頭の良い学校とか行けば、思春期にはこういうタイプはゴロゴロいると思います。『こころ』のKとか、ドストエフスキーの主人公なんかもそうですよね。というか、マンがそうであるように、モダニズムの時代はこういう「自意識家」が一種の病みたいに流行したし、それが数を減らしつつも今でもいるという。で、イスラエルも例のごとく、その病から治るのが遅すぎて、優等生が不良になるみたいに一気に揺れ動いて自我を保てなくなってしまう。まぁ、可哀想な人ですよ。トニオほど自意識過剰じゃないんで、余計に可哀想に思える。イスラエルは公民権運動に尽力したゴリゴリの活動家で、劇中ではブラック・パワーの思い出に浸るようにヘッドホンしてずーっと(本当に風呂はいる時と寝る時以外ずーっと)70sのソウルとかフリージャズとかファンクを聴いてて、このジャンルの音楽が好きな人はやっぱり彼を嫌いになれないんじゃないでしょうか笑 エンディングはちょっとメロドラマティックかもしれないですが、スピナーズのI'll Be Thereがかかったときには自分は結構ジーンときました。


 というわけで、以上感想でした。ではまた。

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