戦後日本と自己責任

 最近やたらと目にする「自己責任」という言葉。
 「自分のことは自分で責任を持つ」という意味だと了解されているのは当然として、では果たして「自分の責任」とはなんだろう。

 たとえば、赤ちゃんがうんちをしても、親が拭いてあげる。自分のことを自分でできる力がないので、赤ちゃんの「自己責任」というのはほとんどない(さすがに呼吸は自分でしてくれないと困るので、生まれるとすぐにお尻をひっぱたかれる)。
 子供は何が自分のために最善かを知らないので、無理やり勉強させられたり、門限を守らされたりする。子供が勉強をしないのを「自己責任」だからほっておくことは、親の「無責任」ということになる。
 大人がタバコを吸いすぎて肺がんになったら、それは 「自己責任」。これはようするに「自業自得」、自分で招いた結果なんだから他人のせいにするな、ということだ。
 自分で危険な場所に行ったのだから、それを他人のせいにするな、というのなら、そんなあたりまえのことを「自己責任」なんて言葉でわざわざ言う必要はないだろう。

 「責任」という言葉は、そもそも「自分」じゃなくて「他人」に対して持つものではないだろうか。私が「おおかみがきたぞ!」と叫んだら、それによって他人が怯えたり、狼を撃退するために畑仕事を休んだり、危険を避けて引っ越したりするのだから、私は自分の言葉に「責任」を持たなければならない。私が責任感のない人間だったら、きっと適当なことばかり言って人に迷惑をかけて、やがて「あいつは無責任なやつだから、もう信用しない」と言われる。
 企業であれ私人であれ、世の中とまったく無関係に仕事をすることはできない。私達はみんな、お互いがお互いに対して「責任」を負って生きている。ある人が「私は自己責任で仕事をしています」と言ったら、それはふつう、「私のせいで周りの人に迷惑がかかっても、その責任はすべて私自身が引き受けます」という意味ではないだろうか。

 というわけで、責任というのは、それを引き受けた時点でだいたい「自己責任」ではないだろうか。
 それとも、自分が自分自身に対して背負わなければならない「責任」というのがあるのだろうか?
 実は、そういうものもあったりする――たとえば『東京物語』の原節子とか、最近感想を書いた『遠い雲』の高峰秀子なんかは、過去の自分が下した決断(どちらも夫の家に入り、「嫁」として生きるという決断)に対して、未亡人となった後も、責任を感じて自由になれないでいる。しかし、これらの映画を観るほとんどの現代人は、「なんて不自由な人だろう」と呆れてしまうのではないか――実際、『遠い雲』の高峰秀子は表面的にはその頑なさを批判されている(詳しくは当該記事を読んでいただきたい)。

 彼女たちの頑固さが「自己責任」であるというのは、彼女たちの周りの人々がみんな、「自由にしていいんだよ」と言っていることが裏付けている。『東京物語』の親夫婦も、『遠い雲』の親兄弟も、みんなが「私達に気を遣わないで、自分のために行動しなさい」と諭してくれる。
 時代のコンテクストを考えると、彼女たちは戦後日本社会のメタファーであるように思える。
 戦後日本社会は、戦争を起こした過去の大日本帝国の責任を取り続けている――社会にはもう戦争を知らない若い人々もいるのに。小津も木下も、親たちから若者に「もう自由になっていいんだよ」と言わせることで、「自己責任」の呪いを解こうとしたのかもしれないし、もう少し丁寧に読み解くと、結局は責任に殉ずる原節子や高峰秀子を「滅びゆく最後の日本人」として理想化しているようにも見える。おそらく、その両者が入り混じったとてもアンビギュアスな気持ちを描いているというのが、本当のところだろう(映画や文学というのは、得てしてそういうものである)。
 
 とにもかくにも、戦後の日本人は「自己責任」にとり憑かれている。だが、何十年も生きる人間はふつう、昔の自分とはぜんぜん違う考え方や感じ方をするはずだ。
 キネマ旬報のオールタイム・ベストでは、日本版は小津や成瀬の作品がいつも上位。海外版では『ゴッド・ファーザー』や『第三の男』や『ローマの休日』が上位。『ゴッド・ファーザー』と『ローマの休日』は「生まれたときに定められた自分」の責任を引き受ける話だし、『第三の男』が代表するノワールというジャンルは、無慈悲で残酷な運命に対して、人間にできるのはただそれを「自分自身の選択」として引き受けることしかできないのだと示すまさに自己責任の物語だ。
 こういう作品に混じって、いつも上位にランクインするのがマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』だ。
 『風と共に去りぬ』といえば主人公スカーレット・オハラの名言「明日は明日の風が吹く」(原文は Tomorrow is another day。名訳である)。スカーレット・オハラはちょっと頭のおかしい人なんじゃないかというぐらい無責任な人だけど、しかし戦後の日本人が彼女の姿に焦がれたのはよく分かる。彼女からしたら、「昨日」の自分の責任を「今日」の自分が引き受けるなど、ちゃんちゃら可笑しいことになる。
 そういうふうに「自己責任」から自由になりたいという気持ちは、強すぎる「自己責任感」と裏表に、いまも日本人の感性のベースとして存在している――たぶん、戦後の日本のあらゆる物語は「自己責任論」をめぐって展開していると言ってもいいぐらいに。

 戦地で捕まったジャーナリスについて「自己責任」を論じることが荒唐無稽であることは明らかなのに、誰もが「自己責任論」という言葉に引っかかりを覚え、それについてなにがしか語らねばならない最近の状況というのも、そうした戦後日本の「自己責任」の根深さを示しているのかもしれない。

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