Jean Baudrillard, "The Spirit of Terrorism"

 この決して長くはないエッセイを、ボードリヤールは2001年の10月に書いた。実際に公になったのは2001年11月3日の『ル・モンド』紙上でのことだが、いずれにせよ、これは9.11という「事件」への応答としては極めて「素早い」ものだったと言える。そして、この素早さは、そこに含まれた「テロリズム」への洞察が鋭ければ鋭いほど、ある一つの看過し難い問題を生み出してしまっているように、私には思える。

 まずは、ボードリヤールが何を言わんとしているかを非常に簡潔に要約してみよう。このエッセイを通じて、ボードリヤールは執拗に、それも意識的に「挑発的」で「非道徳的」な態度をとり続ける。たとえば彼は、「テロリズムはイスラムとは何の関係もない」と断言し、「ツインタワーの崩壊は、私達自身が望んだこと」であり、あの事件は「私たち自身の文明による自殺だ」と言ってのける。こうした発言の背後にあるのは、テロリズムの問題は「善」と「悪」に回収できない、善悪の彼岸の問題として捉えなければならない、という根本的な主張だ。
 これはある意味、非常に単純な図式である。ボードリヤールはテロリズムをある歴史的な、あるいは現実的な条件に意義付けられた行為としてではなく、グローバル化を推進した末に完成された文明の「システム」が内包せざるを得ない根源的な「バグ」あるいは「ヴィールス」として考える。ある意味で、彼の主張はコジェーブ=ヘーゲル的な弁証法的歴史観を、脱構築主義的に書き換えたものだといえる――文明がひたすら成熟し、「悪」を打倒し排除し続けた結果、残るものはなにか。コジェーヴはそれを「絶対精神」と呼び、そこで歴史は終わるはずだった。しかし冷戦以後、「歴史の終わり」は訪れず、グローバル化によって単一の思考に基づく単一の論理(例えばニュー・リベラリズム)が拡大し続ける一方で、テロリズムとの戦争が起こった。しかしながら、ボードリヤールに言わせれば、これは「勝ち続ける論理」にあらかじめ設置されていた時限爆弾のようなもので、「論理」それ自体が宿命的に孕んでいる「非論理」の顕在なのだ――ちょうど脱構築主義にとって、あらゆる論理はそれを脱構築する「代補」(デリダ)あるいは「盲点」(ド=マン)なしに成立し得ないように。
 この「非論理」こそがテロリズムの唯一の武器であり、それは「死」と同義である。テロリストとは、西欧的価値観が作り上げた論理によって行われる「ゲーム」に参加した「フェアではないプレイヤー」だ。なぜなら、ゲームは誰もが勝つため、得をするために計算することで成立するはずなのに、テロリストだけは自らの死を望んでいる=計算が通じないからだ。ここで重要なのは、彼はゲームのルールを認めない「他者」ではないということだ――例えばパレスチナの自爆テロや革命ならば、そのような「他者」として「西欧」に挑み、やがては駆逐されてしまう。だが、テロリストはルールに則って動きながら(彼らは私たちのすぐとなりにいて、普通に生活しているかもしれない)、しかし突如として、その世界の論理を無に帰してしまうのである。だから、私たちはテロリストに勝つことは決してできない。そもそも「彼ら」は「私たち」がゲームを始めた以上、けっして排除できない「死」なのだから。

 このように、ボードリヤールのテロリズム理解は非常に思弁的である。そこには現実に9.11という事件へと至った歴史的・経済的・政治的な考察はまったく存在せず、加害者と被害者の区別すら曖昧である。
 私は、ボードリヤールが「テロリスト」について述べていることは、「理論的に」間違っていないと思う。というよりもそれは、現実のテロリズムから導き出された結論というよりも、私たちという存在について思考したとき(つまり哲学的に)必然的に導き出される結論――「死の欲動」であれ、「脱構築」であれ――を「テロリズム」と名づけたにすぎない。逆に言えば、これは人類に普遍的な「真理」なので、「テロリズム」に対抗するためにどうすればいいかとか、そういった現実的な手段への考察も一切ないし、そもそも不可能である。私たちは真理を受け容れるしかないのだから。
 だがしかし、この文章をボードリヤールが 9.11 の直後に発表したこと、それによって、私にはそこに一つの危険性が内包されてしまったように思える。ボードリヤールは「テロリズム」を「幻想」と断言する。それは現実に起こったいかなる事件にも相関物を持たないからだ。それならば、 9.11 という事件はなぜあれほどまでに特異な現実として特権化されるのか。あの事件はそれ自体、「一つの現実」にすぎない。しかし私たちは、その事件に意味を見出すことが出来ない。そこには映画のワンシーンのような文脈は存在せず、またボードリヤールが「テロリズム」の定義として見出したように、そもそもそこに表現された原理は「無意味」である。ならば――あの大量の死は、それ自体が「ゴミ」のようなものである。そこに私たちは「廃棄物」としての私たち自身の存在の無意味しか見いだせない。
 だから、「テロリズム」とは「一つの現実」に憑依した「存在の無意味さ」なのだ。それは「スペクタクル」としてのみ流通する、一種の幻想にすぎない――私たちは実際には、ただの大量殺戮を眺めているにすぎない。だが、そこに意味を見いだせないとき、私たちはまさに「テロリズム」という「無意味」な「幻想」が顕現したという「錯覚」に陥るのだ。
 ならば、ボードリヤールが「9.11」という事件を、あたかも世界の歴史が変わった瞬間、彼の説く「テロリズム」の論理の顕現の瞬間として記述することもまた、一つの錯覚ではないだろうか。彼がそのように9.11を眺められるのは、それが「無意味」だからではなく、まさにそのような「スペクタクル」として、彼自身が事件の文脈を把握する間もないまでに、錯覚に陥ってしまったからではないだろうか。
 私は、ボードリヤールが「テロリズムは死を武器にする」と述べ、「論理的な死」こそがテロリズムの恐怖なのだと主張するとき、それは極めて正しい意見だと思う。だがしかし、テロリズムとはまさに、そのような「論理的な死」――脱構築的にいえば、それは絶対に論理の側からしか、事後的にしか把握できない――が、まさに「いま、ここ」に顕現したという錯覚を利用することで人々を脅かすのだ。言ってみれば、それは一つのハッタリにすぎない。なぜなら、「死」は常に私たちに潜在し、私たちは「存在の無意味」と表裏一体となって生きるほかないのだから。だが、テロリズムはそのような死の体現者として、私たちを一方的に脅かす存在として振る舞うために、「スペクタクル」を利用する――私たちを思考停止に陥らせ、その瞬間を特権化するように促す。
 だからこそ、ボードリヤールのエッセイは、「9.11」という事件の本質をつきつつも、その効果に加担してしまっているのだ。









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