Orhan Pamuk, The Naïve and the Sentimental Novelist

 本書はトルコ人で初のノーベル文学賞を受賞した作家、オルハン・パムクがハーヴァード大学に招聘されて行った特別講義の記録である。パムクはその作品のほとんどが邦訳されており、我が国でもかなり名が知られた作家である。余談だが、それらの翻訳の多くを出版していたのが、私が日本で住んでいた早稲田鶴巻町のアパートから通りを隔てた目と鼻の先にあった藤原書店という出版社である。この出版社は創業間もなくフェルナン・ブローデルの『地中海』五巻本を刊行して話題をかっさらい、その後もウォーラーステインとかブルデューとか、人文社会系の重要文献の翻訳を続々と刊行している。
 パムクが招聘されたのはハーヴァード大学の Norton Lecture seriesという伝統的な講義で、ざっとこれまでの講師陣を並べてみると、エリオット、ストラヴィンスキー、E・E・カミングス、ボルヘス、ライオネル・トリリング、レオナルド・バーンシュタイン、ジョン・ケージ、ジョン・アシュベリー、ナディーン・ゴーディマー(アフリカ人で二人目のノーヴェル賞作家)、ジョージ・スタイナー、パムク、ウィリアム・ケントリッジ、ハービー・ハンコック(!)と続き、来年はトニ・モリスンだそうだ。まったくもって、とてつもない豪華な顔ぶれ、さすがハーヴァードである。本書のようにほかの講義も出版される場合が多いだろうから、なんとか探しだしてみたいと思う。

 さて、肝心のパムクの講義の内容なのだが、これが上記のような顔ぶれと比較してみるとなんとも驚くほど穏当というか、ぶっちゃけ大したことを言っていない。どのぐらいの人数が聴講していたのかわからないが、もしこれが大学院の授業だったら、頭でっかちの学生たちからいちいち鋭い批判や質問が飛んできたのではないかと想像できる。
 パムクが語っているテーマは「近代文学のチャンピオン」としての「小説」であり、その特質、「小説はいかにして書かれ・読まれるのか」、ということだ。一応は第三世界(まぁトルコをこう呼ぶのには抵抗があるが)の作家として、小説という近代ヨーロッパ世界が生み出した装置が世界を席巻し、あたかも(近代絵画の遠近法がそうであるように)「標準」的な文学として流通した歴史性について、パムクは言及するのを忘れはしない。それにしても――パムクにとって、一九世紀に完成された小説という制度は自分の周囲の世界を理解するために最も有効なツールであったし、そこにモダニズム以後の複雑な洗練を施したとしても、それは未だにどの世界の人々にとっても世界を理解するための有効なツールであり続けている。
 だから、パムクの小説観はかなりの程度「古典的」であるし、言葉を変えれば「文学的」である。決して単純に切り捨てているわけではないが、ジャンルフィクションのような大衆性に対する彼の言辞は時にあまりにナイーブにすら響く――それは彼自身が「ナイーブ」であることからの距離によって「小説性」を測っているだけになおさら問題として映し出されるのだ。

 本書のタイトルが指し示すように、パムクは小説(あるいは広義には文学、ないし書かれたもの全て)に対して、「ナイーブ」な読み手・書き手と「センチメンタル」な読み手・書き手という二種類を対置する。これはもちろんシラーの有名なエッセイに範をとっている。シラーはゲーテのような古典主義時代の芸術家や、それ以前の芸術(特に詩だろう)の作者たちが自分の言語を疑わず、自分と社会との関係に葛藤することもなく、自然に直感のおもむくままに偉大な作品を生み出していたことに「嫉妬」して、彼らをナイーブな芸術家と読んだ。それに対して、自分のような「自意識」を持ち、つねに批判的・反省的にしか世界を眺められない芸術家を「センチメンタル」と定義したのだ。
 パムクはあとがきで、講義のために影響を受けた書物としてフォースターの『小説の技巧』と並びルカーチの『小説の理論』に言及している(なんというか、私などは本書を読み進めながらいちいち「これルカーチやん!」と思っていたので、もっと早く手の内を明かせよとも思ったのだが、まあそれは置いておこう)。シラーの言っていることは、ルカーチが小説の「存在理由」として挙げている事柄とほとんど同一である。ようするに、近代化によって「世界」という「全体」から「疎外」された「個人」は、前近代の人々のように「素朴に」文学や神話によって自分達の存在を確認することができない、不安な状態へと置かれた。そのような不安に対応すべく、近代人のための「新しい叙事詩」として求められたのが「小説」である。
 だから小説は、近代人が世界を眺めるための「鏡」であり、そこには神々や英雄やエライ人たちではなく、「普通の人々」の「日常」が描かれる。そして世界を理解しようという意志に支えられた小説は、単なる言葉の寄せ集めのようでありながら、常に「全体」を志向している――パムクはこれを、「中心」という言葉で言い表している。だから、パムクにとって小説とはやはり一九世紀的なものなのだ、というと、どうもそう単純ではないらしい。なぜなら、彼にとってはバルザックやスタンダールのような作家でさえ、いまだに「自分」と「社会」との間に、あるいは「言語」に対して鋭い違和を感じていないからだ。むしろ、そのような違和に直面しつつ、世界を描写する作家、トルストイ、ドストエフスキー、モダニストたち、ボルヘスといった面々が、彼の考える偉大な作家のようである。
 まぁ、このへんはパムク自身あまり精緻な議論をしていないし、深く突っ込む必要もないだろう。私としては、彼が述べていることはだいたいあっていると思うし、彼が通俗小説(ロマンス)と小説(ノヴェル)とを区別して、後者は一読しただけではわからない「中心」があり、しかも読者それぞれが無数の中心を見出しうる、といったいささか旧弊な「文学観」を打ち出すのにも、首肯できる。とはいえ、この「中心」にしても、いろいろと小説の理論に詳しいらしいパムクがW・C・ブースを知らないはずがないのに、彼の名に言及しないのが少々気にかかった。彼の言う「中心」というのは、要するに「作品」を「作品」として成立させるような強固な構造、「別の一語ではなく、この一語」である「必然性」への信仰を生み出す装置である。ブースはこれを(当時からすでにバルトなどによって攻撃されていた伝記的な作者に対して)「想定された作者」と呼んだ。要するに、我々がある作品を読んだときに、「この一語、一文には意味がある」とか「この作品のテーマはこれだ」とか考えて、一冊の書物をトータルで構成された「作品」として考えるのは、そのような「全体性」があるからだ――これをブースは「想定された作者」つまり読者が勝手に作り上げる「権威」だと言ったのである。パムク自身、「中心」とは書き手と読み手とが互いに頭を働かせてつつ見出すものだ、と述べているが、それはブースが「想定された作者」が「想定された読者」と一つになるのが「作品」を「読む」ということだ、と述べたのとほとんど同一である。

 というわけで、あまり独自性のなく、しかもややぼんやりとした講義だな、というのがだいたいの感想だが、それなりに良い所もあった。
 私としては、パムクが言語のビジュアルな側面を強調していたのが面白かった。だいたい作家というのは「対話・思想」のドストエフスキー派と「描写」のトルストイ派に分かれるものだが、パムクは紛れも無く後者である。作家が物語をどのようにして生み出すかについて問われた時に、「キャラクターが勝手に動き出した」というのはよく聞く文言だが、パムクはそこにちょっとした疑義を挟み込む。彼によれば、最初から良いキャラクターなど生まれないし、そもそもキャラクターを全面に押し出すことで小説が書けるというのも一種の西欧中心的な伝統の名残である。もっと言えば、そのような「キャラクター」の「至上性」自体が、ブルジョワ的な価値観に依拠した近代社会の「神話」であるとまで言っているように思えた――私たちは誰もが、「自分は他人とは違う」と思いたいのであり、難解な小説を読む行為ですらかなりの程度、こうした凡庸な自尊心によって動機づけられていたりする。しかしながら、パムクが断言するように、実人生において、小説の登場人物ほど強烈な「キャラクター」を発揮する人物など存在しない。現実の世界では、誰もがある程度は似ているし、凡庸なのだ。
 そこでパムクはこう考える。作者がまず作品を生み出そうという欲求に駆られ、そして手始めに言葉にしてゆくもの、それは彼/彼女がどうしても言葉で捉えたい「世界観」あるいは「雰囲気」であり、それを可能にするのは「描写」である、と。パムクは、「エクフレーシス」という文学の伝統に着目する。エクフレーシスというのは、言葉によって絵画や彫刻、音楽といった別の美術を説明することである。それは言葉によって外界を捉えようという欲望であるが、その言葉は対象そのものではなく、それを観た者の思想や気分、生理までをも取り込んでゆく。こうした言葉による「雰囲気」の叙述、それをパムクはエリオットが「客観的相関物」と名づけたものだとも述べている。こうした「描写」の成立はそれ自体、シラーの言葉でいえば「センチメンタル」なものであるはずだ。なぜなら、作者は自分の受けた感覚、ナイーブな主観を、言葉を通じて他者に伝えることを通じて、絶えずその限界に突き当たり、不満を感じずにはいられないのだから。
 というわけで、パムクの説明は再び、ルカーチ的な文学観へと収束してゆくのだが、私としてはこうした描写の問題を、ロマン主義以降の芸術論の関係でもう一度見なおしてみたいと思えた。

 作家による文学論というのはえてして面白いものだし、彼らが意外なほど勉強熱心であることが伝わることがよくある。本書もその例に漏れず、彼がいかに様々な文学作品から影響を受けてきたか、文学理論にまで精通しているかをよく示している。とはいえ、私が最も興味をそそられたのはパムクの交友関係で、ホミ・バーバやグリーンブラットと彼がどんな会話を交わしているのか、そちらのほうをもっと知りたいとも思ってしまった。





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