ルイス・ブニュエル『黄金時代』と『皆殺しの天使』

 ヘンリー・ミラーはブニュエルを非常に高く評価していて、特に彼の『黄金時代』については熱のこもった賞賛のエッセイを書き残している。ブニュエルが『黄金時代』で成し遂げたこと――既存の映画の文法を次々と破壊し、カソリシズムやブルジョワのモラルを徹底的に批判した――は、まさにミラーが文学において成し遂げんとしていたことであった。『黄金時代』を見た直後、ミラーはそれまで悪戦苦闘していた小説 Crazy Cock を手放し、『北回帰線』に取り組むことになる。

 『黄金時代』は実際にとてもおもしろい作品で、『アンダルシアの犬』のミュージックビデオのような無秩序な魅力には及ばないが、その代わりより具体的な構成やプロットが存在していて、より「ブニュエルらしさ」が際立っている。どんな映画監督も(というかどんな芸術家も)、自身の追求する芸術は少なからず性的なフェティシズムと分かちがたく結びついているものだ。たとえばヒッチコックなんかはそれがあまりにあからさまな例だけれど、僕はブニュエルを観るたびに、ブニュエルのフェチズムに深くやられてしまう。ブニュエルは明らかに「足フェチ」で「陵辱フェチ」だ。とくに、高貴な女が無様に汚されていくのに興奮している。ミラーがD・H・ロレンスとブニュエルから同時期に強く影響を受けたのは、決して偶然ではない。

 『皆殺しの天使』はそのようなフェチズムが非常に絶妙なバランスで映画としての面白さに溶け込んでいる。その主題は『黄金時代』において既に描かれていたような、ブルジョワ階級のお高くとまった凡庸さと、彼らが抑圧しようとして逆に魅了されている野生的な衝動である。私の手元には四方田犬彦の浩瀚な『ルイス・ブニュエル』があり、そこで彼は『皆殺しの天使』の構造について非常に説得的な論を展開している。ただ、本作の一時的な「解決」の瞬間をあまりに聖なるものとして読み込もうとするあまり、結末の解釈が一面的になっている気がする。私には、結末部は(あのキリスト教嫌いのブニュエルが)教会に閉じ込められた人々だけが黙示録的な虐殺を逃れることができるかのように描いていると見えて、非常に不可解なのだが、四方田はそのへんの曖昧さには触れていない。そもそもこの話、「行きたいのに行けない」というあまりにも性的なジレンマだけで展開してゆく話なので、「聖女」的なキャラクターが「破瓜」することで「解放」されるという読みが構造的に説得力があったとしても、「だからなんだよ」という感じは拭えない。
 面白いのは、この「イカせてもらえない感じ」が、観客にとっては快楽であるということだ。というか、探偵小説でも恋愛小説でも、読者というのは常に「この後どうなるの?」という快楽の先延ばしによって読書を楽しむのであり、「オチ」=「イッてしまう」のはすなわち読書の終わりを意味する。映画もまたしかり。『皆殺しの天使』はあまりに「意味深」なディテールが続くので観客は楽しくてしょうがない――しかも、実際には「イケなくて悶々とする」人々を眺め続けているので、余計に自らの快楽に意識的になってしまう――のだけれど、果たして、この映画は最後に「イカせて」もらえたと言えるのだろうか?それとも、あのオチは「じゃあ二回戦始めようか」的なブニュエルの絶倫ぶりを意味するのだろうか。

 ともあれ、「解釈」と「快楽」がこれほどダイレクトに結びついた作品は『皆殺しの天使』をおいてないのではないだろうか。私は個人的に生涯ベスト10に入れてもいいかなというぐらい好きな作品だ。「終電逃して朝までコース」のあの気だるさが、映画だとなぜこんなに観ていて面白いのか、よく分からないが、とにかく心地よい映画である。

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