木下惠介『遠い雲』(1955)と『永遠の人』(1961)

 最近続けて木下惠介の作品を観ている。上記の二作の間に、『今日もまたかくてありなん』も観たけれど、どうもタイトルの二作に不思議な連続性を感じた。
 『遠い雲』では、田村高廣と、彼と両思いだったのに、貧しさから好きでもない金持ちの男の元に嫁いだ高峰秀子の二人が主役。嫁いだ先の男は乱暴で、女遊びが激しく、高峰秀子は泣いてばかりいて少しも幸せではなかったのだが、その男が死んで未亡人になり故郷に戻ってくるところから話が始まる。田村高廣はうじうじしたインテリのおぼっちゃまで、高峰秀子に未練があり、世間体を気にしないでなんとか彼女と再婚できないかと再び接近し始める。高峰秀子のほうも、未だに田村高廣のことが忘れられないとはいえ、既に違う男の家に妻として入り、一人娘もいるために、いまさらすべてを投げ捨てるようなまねはできないという感じ。この二人のヤキモキした間柄に、噂話を言いふらすフーテンの若者や、どうも高峰秀子のことが好きらしい義理の弟の佐田啓二がからんでくる。佐田啓二はめちゃくちゃ性格の良い好青年で、彼と再婚すれば高峰秀子は絶対に幸せになれると誰もが思うだろう。
 この映画、表向きには田村高廣が読んでいるアンドレ・ジイドの『狭き門』が示唆するように、「世間体」や「家」という抽象的な理想に縛られて結局は不幸にしかなれない高峰秀子の生き方を批判するような構図になっている(それとは対象的に、脇役の若いカップルが駆け落ちすることで幸せを掴み取ろうとする)。ところがこの映画、(物語の後半はとくに)「世間」がやたらと叫ばれるにも関わらず、漱石の『それから』に期待するような世間などどこにも存在しない。義理の弟の佐田啓二をはじめとして、義理の父、高峰秀子の姉妹、田村高廣の兄と妹、だれもが結局のところ、「本人たちが幸せになるなら世間など気にする必要ない」と言ってくる、とても良い人たちなのだ。ゆえに、よく考えると一体なぜ高峰秀子がそんなに田村高廣との再婚をを躊躇するのか、わからないようにできている。
 それを理解するには、当時の観客を納得させるためだけに出てきた「世間」という枠組みを取り払ってみる必要がある。途中、高峰秀子が田村高廣に対して、「あなたがいつまでも私を夢見ていた間に、私はとても苦しい現実を生きたのよ」という趣旨のことを言う。高峰秀子にとって、いまさら過去の恋に燃えることは、その苦しみ、決断し、自分自身を変えてまで選んだ人生を否定することである。彼女はそのことに耐えられないのだ(フォークナーをはじめとして、アメリカ文学にはこういう頑固なひとがよく出てくるが、実は木下惠介の作品にも非常に多く登場する――これが私にはとても興味深く思える)。田村高廣はどこまでも優柔不断なくせに、映画の現在においては(おそらく彼に感情移入する多くの観客もともに)高峰秀子の不合理な生き方を否定しようとする。だが、一見気弱な「現代の若者」のようでいてはっきりと親世代に逆らい、駆け落ちしてみせる青年(石濱朗)が示しているように、攻められるべきがいるとするならば、それは決定的瞬間に「一緒に行こう」と高峰秀子を奪い去ることのできなかった田村高廣にほかならない。物語はいまさらながらに駆け落ちを持ちかけた田村高廣の提案についに心動かされ、駅で切符まで購入した高峰秀子が、ちょうど金沢から帰ってきた(ちなみにこの作品の舞台は岐阜県高山。古き良き日本を写すロケ撮影の美しさも木下映画の魅力だ)佐田啓二と出会ってギリギリのところでブレーキをかけられるところで終わる。そして彼女を密かに思いやる佐田啓二こそが、彼女にはじめて「一緒に行きましょう」と言う男なのだ。
 ところで、『永遠の人』もまた、男と一緒に行きそびれてしまった女の話なのである。意表をつく熊本に響くフラメンコの音楽、仲代達矢演じる片輪の夫の孤独に歪んだ人物像など、非常に魅力ある映画だが、この作品の高峰秀子は今度は愛し合っていた佐田啓二に先に行かれてしまう。あるいは、彼女はいつも他の誰かから「先に行ってください」と言われる立場でもある。物語は、どうにも自分の生き方を変えられないままいたずらに人生を浪費した高峰秀子と仲代達矢が、仮初の休戦状態に到達するところで終わる。足の悪い仲代が、高峰秀子の後を必死で追いかけ、彼女と「一緒に行こう」とする姿には、さすがに感動を禁じ得ない。しかし、この愛し合うにはお互いを憎しみすぎた二人は、結局仲代に「お前、先に行け」と言われることで、足並みを揃えることはない。高峰秀子にしても、初恋の人である佐田啓二には、結局「先立たれて」しまう。
 木下恵介映画には、どうにも足並みの揃わないことの不幸が執拗に描かれるようである。

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