複製技術時代の複製物

 映画監督のルキノ・ヴィスコンティはルイ・ヴィトンの鞄を愛用していたが、まだヴィトンがそれほど有名ではなかったために、自分のイニシャル――L・V――を刻印した鞄をオーダーするほどに徹底したナルシストなのだと畏敬の念を集めていたそうな・・・。
 というエピソードを聞いて、そういえばルイ・ヴィトンはいつからこんなに有名になったのだろうとウィキペディアを覗いてみたのですが、ヴィトンが有名になった経緯よりも、そもそもその誕生のとき19世紀中頃から一貫して、絶えず「容易にコピー品が出回り、対策をするために〜」という既述が繰り返されていることが非常に面白く感じました。
 19世紀中頃に丈夫で軽い新商品として登場し、はじめはロシアやスペインの貴族に愛用されることで「ブランド」としての価値を醸成しつつ、あの93年のシカゴ万博で大量消費時代の寵児となったルイ・ヴィトン――そう、ヴィトンの隆盛とコピー商品との戦いの歴史はまさにベンヤミンが分析した「複製技術時代」の歴史でもあるのです。
 ベンヤミンはそれまで王侯貴族や教会によって与えられていた「唯一無二」の価値あるものとしての「芸術品」(もちろんこれには中世の唯一無二の王権・神権が背景にあるでしょう)が、映画や写真に代表される大量消費・複製を前提とした大衆のための「商品」にとって代わられる――そのことで世界がより平等で民主的なものになるのではないか、という希望を抱いていたわけです。
 ところが、大変おもしろいことに、その大量消費・複製の申し子であるルイ・ヴィトンの商品は自らを「唯一無二」の「ブランド品」として、ベンヤミンが古臭いものとして退けた「儀礼価値」によっていまなお存在し続けている。これはまさにマルクスの言う「亡霊」ではないでしょうか。皮肉なことに、ルイ・ヴィトンそのものにかつての儀礼的価値・アウラを作り出す力がないことは、それが誕生のときからコピー商品との戦いに明け暮れていることが示してしまっているわけです。
 まるでドッペルゲンガーと争う自我のような、現代人にとっての「個性」という言葉がもつ呪いの寓意のような話ではないでしょうか。

 ところで、ルイ・ヴィトンの記事を読んでいたら、現代芸術家の岡本光博という人が、巷に出回っているコピー品を切り貼りしてバッタの形にし、「バッタもん」という作品にして展示したところ、ルイ・ヴィトンから怒られたという話が載っていました。これはよくある「アートかどうか」という問題というよりも、「何がルイ・ヴィトンかを決めるのはルイ・ヴィトンでなくてはならない」というルイ・ヴィトン誕生から続く宿命のような問題だと思います。儀礼的価値(いわゆる「アート」の価値であり、「ブランド品」の価値)を持っていいのは「俺たちだけ」というわけで、なんのことはない、「バッタもん」は現代美術でもなんでもなく、「ブランド品」にとっての数ある駆逐対象としてのバッタ物に他ならなかったというわけです。
 この岡本光博という人は他にもオヤジギャグとしか思えないしょうもない作品を作り続けてるちょっとアホな子なのですが、上記の問題を扱ったインタビュー記事で次のように答えていました:

当然の事ですが、資本主義社会では経済力のある方が情報の発信力があり、簡単に我々の脳裏にそれを焼き付けることができます。もし引用表現が許されなければとても歪(いびつ)な社会になると思います。アートは作品を通して社会に批評的な視点を持ち込むことで、資本主義社会の歪みを矯正することができる人類の武器です。
この発言、非常に面白くないですか?彼は「引用」という言葉で自分の行為をデュシャンやウォーホルのような現代アートの文脈に位置づけようとしているみたいですが、私にはどうも本質的なところで岡本さんと彼らとの間には違いがあるように思えます。むしろ、彼の発言はまるで某国でバッタ物を日々生産している工場長のお言葉だと思うと、とてもしっくり来るのではないでしょうか――「我々は資本主義における弱者なのだ」「貧乏から這い上がるには、パクリだろうがバッタ物だろうが、どんどん盗むしかない」「これは『盗作』ではない、『引用』だ」「これは資本主義社会の歪みを矯正する行為なのだ」。なるほど、そういえば岡本さんという人は「ドラえもん」にそっくりな作品で以前も話題になってましたが、いまもなお資本主義と戦い続ける某国にも人気キャラクターにそっくりなグッズやテーマパークがいっぱいあったなーーー。
 というわけでまとめると、私はこのルイ・ヴィトンと自称現代アートとの戦いが、複製技術時代の「商品」の――「アート」の、ではなくて――あり方を象徴するもののように思えたのです。ルイ・ヴィトンは明らかに「複製」可能な「商品」として誕生しながら、「アート」の儀礼的価値が凋落するのと相反するように自らを「アウラ」をまとった「作品」として偽装することで価値を高めてきた。それに対して、岡本光博という人は、「コピー商品」でしかないものを「アート」と偽るための理論武装をすることで堂々とルイ・ヴィトンをパクろうとする。そう、これはアートの資本主義に対する逆襲ではなく、「古典的アート」を詐称するルイ・ヴィトンという「商品」と、「現代アート」を詐称する「コピー商品」との間の、純粋なる経済的闘争なのです。
 そう、ここまでいえばもうおわかりでしょう・・・これは資本主義国と某国との間に起こった代理戦争だったのだと!――「な、なんだってーーー!!!??」
 おわり。









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