カップヌードルのCM

 いまYoutubeで「放送禁止になったCM集」を見ていたら(一年に一回くらいは見ている気がする)、昔懐かしいカップヌードルの「少年兵」を扱ったCMが出てきた。これは「No Border」という言葉をキャッチフレーズにしていたころの日清が製作した一連のCMの一つで、キャンプ地にいる少年兵がカップヌードルを食べるという内容のものだったのだが、「少年兵」を商品CMのダシに使っていることに「不謹慎」というクレームがついて放映中止になった。私も当時、リアルタイムでこのCMを見ていたし、放映中止になった経緯も知っていた。
 ネットを見る限り、このCMが「不謹慎」であるという批判それ自体を批判する言説が多数はを占めている――「少年兵がいるのは世界の現実なのだから、そこから目を逸らすべきではない」、「メッセージ性のあるCMなのだから堂々と放映し続けるべきだった」など。
 私としては、①このCMの「メッセージ性」とやらが無批判に肯定されていることにまず疑問を覚え、②このCMが「少年兵がいる現実」を認知・改善することに役立っているのかも疑わしいと思った。というのも、「少年兵」というのは戦争の悲惨な犠牲者にほかならないわけだが、CMの世界で描かれる彼も彼の妹もとても小綺麗な恰好をしており、純粋な目で、満面の笑みを浮かべてカップヌードルを頬張る姿は、「少年兵という現実」というよりは「少年兵のコスプレをした子役」にしか見えない。一見「悲惨な現実」を扱っているジェスチャーをしながらも、実際にはその「記号」を弄んでいるだけではないのか、というのが、私が日清のCMに批判的にならざるを得ない理由である。
 そのような記号化は少年兵のみならず、戦車や重火器や兵士たちが映されるキャンプの様子にしてもそうで、そこには感動的で清々しい音楽が流れ、カメラは一息つく戦士たちの顔や、決して威圧的でない(むしろ市場のような活気のある)雑踏、そして干された洗濯物といった姿を映すことで、「戦争の悲惨さ」ではなく「戦士たちの休日」とでも呼ぶべき牧歌的な映像を作り出している。
 CMの最後には、左下にごくあっさりと「世界には30万の少年兵がいます。私たちに何ができるでしょうか」という問いかけともつかない言葉が置かれ、さらに日清のホームページが続いている。日清のホームページにアクセスすると、何か有益な情報でも得られるというのだろうか?「私たちに何ができるでしょうか」という問いかけは、CMそれ自体の詩学としては明らかに「カップヌードルを食べましょう(=それは少年兵も笑顔になるほど美味しい)」という答えが含意されている。
 もっとも、日清は世界平和のための活動や資金援助に積極的な企業であるようなので、当時のホームページにそのような情報が記されていた可能性もある。しかしながら、もしそのようなコーポレートイメージを売りにしたいのならば、最初から「カップヌードル一つにつき、◯◯円を募金します」といったストレートな情報をCMの最後に加えたほうが、「私たちに何ができるのか」の答えとして適切ではないだろうか。さらに付け加えれば、そもそもそのような実質的な援助へとつながらないかぎり、CMが「戦争の悲惨さ」という記号によって「消費しましょう」というメッセージを伝えようとする「不謹慎」なものであるという批判は免れえないと思う。
 そもそも、「何ができるか」という問いかけ自体、目の前に倒れていじる人がいる時に「さあ、どうすれば助けられるか考えましょう」と言っているような呑気さを感じる。このCMのメッセージ性を云々する人々は、このCMが人々の「戦争の悲惨さ」についての認知を具体的に高めるとか、募金や援助といった実質的な行動を助長するといった効果をいささかなりとも認めるというのだろうか?
 私としては、上述した「戦争の記号化」によって、むしろ戦争という現実は遠ざけられるように思われる(それはカップヌードルを食べれば改善できる程度のものなのだ、といったように)。
 ちなみに、そのような「戦争の記号化」は一連のCMすべてに共通してみられる要素で、たとえば戦車がお花畑を通ったり、子供たちが赤の広場になだれ込む(正直、少年兵よりもこっちのほうがずっと問題があるように思えた。日清は反ロシアのメッセージを伝えたいのだろうか?)といった作品では、具体的な政治関係ではなく「国境はよくない」や「抑圧はよくない」といったメッセージを伝える寓話の装置として「戦争」や「全体主義国家」のイメージが用いられている。しかし、それは所詮、寓話であって、子供に「戦争はよくない」と読み聞かせることと程度の差はない。つまり、これらのCMは「戦争はよくない」「国境や差別をなくそう」というメッセージを「再確認」させることは出来ていても、「現実」に目を向けさせることはない。だから、「現実」を印籠のように掲げる「少年兵バージョン」の擁護者たちにしても、結局のところ彼らの論理は、「世界には少年兵がいる」という「彼らが既に知っている現実」を「認める」か「認めないか」ということに終始している。私としては、このCMが不謹慎であると言う論理の背景にあるのは、そのような「現実」を認めない(擁護派の言うところの平和ボケした)視聴者ではなく、そうした現実を抽象化し、消費主義の記号に貶めていることへの批判であると思う。
 それゆえ、一連のCMの中で、宇宙から美しい地球を眺めて「No Border」と訴えるバージョンだけが格段に「出来が良い」のは必然であると思う。そこには「地球は一つ」「進歩はすばらしい」「科学技術は世界を平和にする」といったグローバル時代の消費主義にとって抜群に相性の良いメッセージだけが全面に押し出されているからである。果たして、そのような「青い美しい地球」という記号そのものが抑圧する(先進国の発展と不可分であるはずの)「醜く汚染された大地」「戦争によって荒廃した人と大地」には、いささかの注意も払われないこととなる。
 この「宇宙編」が一連のシリーズの中に組み込まれていることそれ自体が、「戦争」を見せかけの道具としてしか扱っていない日清の政治性(それこそ平和ボケとでも言ってやりたい)を浮き彫りにしているように思われる。
 おそらく、一連のCMを見るほとんどの視聴者が感じたことが「なんと美しいCMだろう」という「感動」であることは、ネットでの反応を読む限りでも確認できる。しかしながら、「戦争はよくない」「平和はすばらしい」という表面的なメッセージとそれを支える「感動」という組み合わせほど、危険なものはない。なぜなら、人は感動したものを無批判に良いと思いたがる性質があるからだ。ヴァルター・ベンヤミンはそうした人を感動によって無批判にしてしまうような装置を、「政治の美学化」と呼んだ。逆に、私たちがついつい美しいと思い、感動してしまうものが、実は抑圧してしまっているものを明らかにするプロセスを、彼は「美学の政治化」と呼んだ。
 「戦争は悲惨だ」というメッセージはあまりにも正しいものである。だが、正しいことをただ繰り返すだけの行為は、ときとして悪にすらなり得る。なぜなら、そのような普遍的な「正しさ」はしばしば、「その」戦争を支えているのは「誰」か、「その」戦争は「誰」にとって悲惨なのか、といった関係性を忘却して、「戦争」を「他人事」にしてしまうのに役立つからだ。
 おそらくこういう批評文を目にすると、それだけで「ごちゃごちゃ煩いなぁ、せっかく良いCMなのに」と思うタイプの人間が、世の中には多数存在する。たしかに、批評というのはまわりくどく、「ごちゃごちゃ煩い」ものである。だが、そのようなわずらわしいことを考えるほどの努力を惜しむ人が、果たして「現実」に目を向けることはおろか、「自らを省みる」ことなどあるのだろうか。「いいから、黙って感動させてくれよ」という気持ちそれ自体が、「悪」であるかもしれないということを批評は常に(自戒を込めて)告発し続けるのである。

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