Blade Runner 2049

 先週、ようやく Blade Runner 2049 を観てきました。この数年、「まさかこの続編を拝める日が来るとは」ってなことが引き続き起こってますね。『ランボー』や『インディー・ジョーンズ』、『スターウォーズ』それに僕からすると『ドラゴンボール』なんかも、もう永遠の古典と化していて、続編を映画館で観るという行為それ自体が「未来に生きている」ような気にさせられます。リドリー・スコットによる『エイリアン』の新作だってそうですよね。あと20年ぐらいの間には、「まさか『ベルセルク』の最終回を読めるとは」とか「まさか『ゼノギアス』の正当な続編をプレイできる日が来るとは」なんて思うことがあるのかもしれません。

 で、『ブレードランナー』の新作ですが、この作品の続編を心底待ち望んできたファンが最も喜べる仕上がりとなったのではないでしょうか。とにかく全編を通じて「ブレードランナーらしさ」が徹底的に貫かれていました。単に世界観とか舞台美術のレベルにとどまらず、映画の編集の仕方それ自体、カメラワーク、役者の演技、音楽、どれ一つとっても中途半端なところがない、スキのない作りでした。商業主義に徹底的にがんじがらめにされた映画というメディアにおいて、ここまでの心意気を感じる作品が2時間40分以上という長篇として劇場公開されたというのは、もはや「事件」と呼んでも良い気すらします。
 というのも、単純に商業主義として、あるいは2017年のバジェット映画として観た場合、Blade Runner 2049 は決して大傑作と呼べるようなものではないと思うんですよね。ストーリーははっきり言って「あってないようなもの」だし、映像もあまりにストイックすぎて普通の意味での「見せ場」が全然ない。音楽にしても、これは個人的には本作の最大の美徳と言えるぐらい素晴らしかったのですが、客観的には超ハードコアですこしも媚びたところがない。たとえば、「敵との最後の戦い」っていうのは普通の映画なら最大の見せ場ですから、派手な戦場なりアクションなりを用意すると思うんですが、今作は観ていて「ええ、こんな渋い感じで本当にOK出たの!?」ってくらい超超渋い出来でした。いやほんと、このハードコアさは全て『ブレードランナー』という作品のファンにとっては「最高だぜぇぇぇ」となるところなんですが、いまの映画という産業をめぐる状況においてよくここまでストイックに作り込めたな、と。

 というわけで、いくら褒めても褒めたりないんですけど、僕は別に「重度」の『ブレードランナー』ファンではない――つまり、別に作品の世界を無傷で守り続けたい視聴者ではありません。なので、この映画がどこまでも元祖のもつ世界に忠実であったがゆえに、それが2017年に作られたことの「アナクロニズム」に気づかずにはいられなかったのも事実です。
 たとえば、本作では第一作以上に、これでもかというぐらいオリエンタリズムとしての「日本語」が執拗に登場するのですが、バブル全盛期の80年代において「リアル」だった「日本語の溢れる国際未来都市LA」は、いまとなっては完全に 不自然なものとなっています。普通に考えて、現代の人々にとってのリアルな2049年は「中国語」や「韓国語」や「スペイン語」や「アラビア語」の溢れる世界であって、断じて「日本語」ではないでしょう(その点で、なぜか「廃墟」となり「時間から取り残された場所」において「ハングル文字」がはっきりと描写されたシーンにはアナクロニズムを通り越した「政治的意図」でも働いているのだろうかと勘ぐってしまいました)。
 あるいは、昨今の世界情勢を反映してわずかに「テロ」や「移民問題」を匂わせるようなところがあるにも関わらず、作品世界は未だに80年代時点での「コスモポリタニズム」に貫かれていて、人種的マイノリティの描写が圧倒的に説得力に欠けています。そもそも、一作目の想像力というのはやはり「東西冷戦」の延長線上にあるもので、レプリカントとはどこまでも「白人の内なる恐怖」の反映だったのに対して、今作ではその問題系に忠実であるがゆえに、「もはや白人などマイノリティにすぎない」という現代のスタンダードからすればどこまでも「古臭い」ものに映ってしまう。
 だから Blade Runner 2049 という作品は、それが第一作の未来を描いているにも関わらず、徹底的に「過去」への「ノスタルジー」に貫かれているという、矛盾を抱え込んでいます。そのことをもって、この作品を批判することも可能でしょう。ただ、私としてはそのようなノスタルジーに満ちた矛盾こそが本作の美しさそのものであると受け止めたいと思います。人は薔薇の美しさが永遠ではないのを知りながら、永遠の薔薇という矛盾を追い求めることを止めることができない――レプリカントという存在こそ、不死を求める人の存在の儚さとその欲望の矛盾であり、それは第一作においても本作においても作品の根幹をなす悲劇的命題となっています。そしてまた、本作を視聴した観客なら誰しもが、「ノスタルジー」がどこまでも「仮初の夢」でしかにことを知りつつも、それでもなお夢の美しさに魅せられてしまう矛盾に、共感せざるを得ないでしょう。
 と、ここまで書いて、本作の主役であり、いまやノワールの「顔」と言っていい俳優に成長したライアン・ゴズリングが、『La La Land』の主役でもあったことは、やはり必然だったのだなと思い至ったのでした。

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