今年のノーベル文学賞について

 こんにちは。今回は時事ネタです(笑)。みなさんご存知のように、今年のノーベル文学賞者はカズオ・イシグロに決まりました。日系人の受賞というだけで、日本であそこまで報道されることには正直驚きました。でもよく考えると、科学系の受賞なんかでも日本で研究のバックアップをぜんぜんしてもらえず海外に出ていった研究者が受賞したりすると、恥ずかしげもなく「日本人が受賞!!」とマスコミも政府も騒ぎ立てているので、これもまたいつもどおりの反応と見れなくもないですよね。いつも指摘されていることですが、そういうケースでは本来、日本の文化的貧しさや研究への理解の乏しさに対して危機意識を持つべきところなんですが。

 さて、この受賞はいろいろな意味で興味深い現象でした。その一つが上に書いたように「なぜイシグロの受賞で日本人が喜ぶのか」で、これは実は単に日本国内の問題ではなく、受賞発表直後に僕の大家の台湾人から「あなたの同国人が受賞したのね!おめでとう!」と言われたり、世界のニュースメディアでも「日系人」というところにやや力点が置かれていたりして、もっと深い問題のようであります。
 これは一つには、ノーベル賞自体が国籍ではなく出生地で受賞者を管理していることに起因しているようです。ノーベルがリベラルな人で、受賞者の「国籍」を考慮に入れるな、と遺言でのこしたためにそうなったようなのですが――こっれてすごい変じゃないですか?おそらく、ノーベルはノーベル賞がオリンピックみたいな国家のプロパガンダの道具として国際政治に使われるような状況を危惧していたんだと思うんですよ。ノーベル賞はあくまで非政治的であって欲しいと。僕はそういうノーベルの思想は素晴らしいと思うんですが、だったら受賞者を出生地で管理するよりも、そもそもそんな分類自体を廃棄したほうが良くないですか?しかも、ノーベル賞は開始当初の地理に基いているために、インド出身者とかを「ブリティッシュ・インディア」とか「インド(現在のパキスタン)」とか分類せざるを得なくなっていて、もうどう見てもおかしいんですよ。こんな戦前の帝国主義全盛期の地政学を反復するようなグロテスクなことをして、それってノーベルの理想と真逆なことになっているのではないかな、というのが僕の意見です。

 で、それとは別に、イシグロがなぜ今年選ばれたのかという問題で、これは本当に不思議です。ノーベル文学賞は、上述したナショナリズムの問題とはまた別のレベルで、非常に政治的な賞であることは明らかです。基本的にはリベラルな政治思想を掲げて戦った作家とか、第三世界出身の作家が選ばれやすく、そこには「世界の人々や、仲良くしなさいよ」というメッセージが常に隠されています。特に近年の元宗主国にあたる西欧列強をなるべく外して、第三世界から選ぼうといった配慮にそれは顕著です。また昨年のボブ・ディランの受賞で言えば、そもそもディラン受賞の声は常に少なからずあった上に、ドナルド・トランプが大統領選を戦っていた状況に合わせて、「お前ら60年代のあの公民権運動の盛り上がりはどうなったんや。また黒人の代わりにヒスパニックに狙いを定めて同じような差別主義国家に逆戻りする気なんかいな。ほれ、ディランでも聴いてあのころを思い出しーや」というメッセージだというのは火を見るより明らかだったし、それは難民問題で揺れる世界情勢に対する平和のメッセージでもあったわけです。

 こうした文脈で、普通にノーベル文学賞の「選考基準」的なものが分かっている人からすれば、日本で毎年のように言われている「村上春樹受賞説」がかなり眉唾なのも明らかだったんですね。村上春樹の作品は決してレベルが低いわけではないけれども、そのコスモポリタンな性質はノーベル文学賞が好むような分かりやすい政治性と相反するものだし、村上春樹を選ぶことによるメッセージ性も希薄なわけですから。
 そういう意味で、今年のカズオ・イシグロというのはかなり不思議なチョイスな気がしたのです。ここで残念ながら、私はイシグロの作品は『わたしを離さないで』しか読んでないので、以下の議論は単なる印象論にすぎないんですけど、そもそも、イシグロって村上春樹と同じような、現実世界に対するメッセージ性のないエモーショナルで内省的な作家という感じだし、文体も非常にオーソドックスなイギリス文学なので、ぜんぜん政治的なメッセージが見えてこないんですよね。
 受賞理由もまさに、「作品のもつ非常に感情的な力によって、私たちの世界と繋がっているという幻想に隠された闇を浮き彫りにする」というもので、「それって村上春樹じゃん」という感じですよね。僕は『わたしを離さないで』はいままで読んだ文学作品の中でもワースト5に入れてもいいぐらいの駄作だと思っていて(それでもイシグロの他の作品はもっとマシだろうと思うぐらい彼の筆力自体は評価しているんですけど)、イシグロ作品が「エモーショナル」と呼ばれる時にそれが何を指しているのかは、たぶん『わたしを離さないで』におけるものと同じだと予想しています。この作品、ほんとに「エモい」んですよ。現実に対する考察とか登場人物の具体的な行動とかが全然ちゃんと描かれないで、ただただ与えられた状況に対して内容のない空虚な感傷が世界の重大事みたいに延々と描写されていて、そういうとこだけとりだしたら日本のエロゲとかオサレな漫画と全然大差ないんですよ。本当にレベルが低い作品で、これ読んで感動するかどうかがその人が文学が読めるかどうかの試金石になるぐらい「なんちゃって文学」なので、逆の意味で是非おすすめしたいぐらい。
 とはいえ、初期作では幻想の中の日本みたいなのを扱っていたり、最新作はやはり大昔のイングランドを舞台にしていたりと、「現実」が「幻想」によって作られるみたいなテーマを扱った作家としては面白いのかな、とも思うんですけど、それにしたって作品数も少ないし、ほんとなんでイシグロが選ばれたんですかね?もしかすると、「現実があまりに酷いから、みんなこれ読んで自分の感傷の中に引きこもって独我論的に生きればいいよ」というものすごいニヒリスティックなメッセージなんでしょうか。
 それにしても、僕はイシグロの受賞によって、村上春樹受賞説は完全にとどめを刺されたんじゃないかと思います。だって、いままで「ないない」言われていた非政治的でエモいだけの作家がまさかの受賞ですよ。ようするに「0.1%」の可能性をイシグロがとっちゃったんだから、まさかもう同じような作家が選ばれることはないんじゃないですかね。いや、北朝鮮のミサイルが日本に落ちるようなことがあれば、政治的メッセージとして日本人の受賞もあるかもしれませんけど。

 いや、でもイシグロの受賞にちゃんとした理由があるのかな、という気もしてはいるんですよ。だから、イギリス現代文学の専門家とかイシグロ研究者とかがそのへんを説明してくれるかな、という期待もあります。とはいえ、受賞から数日経った段階で、どこのメディアもそのへんに関してきちんとした記事を掲載していないので、現状はまったくの謎であります。

 ところで、今回いろいろ記事をあさっている中で、ボブ・ディランの受賞スピーチでの文学作品への言及が、SparkNotes のパクリだったんじゃないかという疑惑があったことを知りました(記事はココ)。記事を読む限り、クロかなって感じなんですけど、ディランがSparkNotesを漁ってる姿とか考えただけでおもしろ過ぎますよね。SparkNotesにとっても非常に名誉なことだったんじゃないかな、と思います。
















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