ウィルフォード『拾った女』とウルマー『恐怖のまわり道』

 今日で半期の授業が修了。Intro to Fiction という英文非専攻の学生を対象とした講義で、毎週、文学理論と文学作品(短編)を扱うという感じでいちおう真面目にやったのだが、後半二週間ぐらいは個人的な趣味全開で、 Charles Willeford の Pick-Up (1955) を通して読み、最終日の今日は Edgar G. Ulmar の Detour (1945) を上映した(それぞれ邦題はタイトルにあるとおり)。学生のウケは・・・まぁ予想どおり今ひとつでした(笑)そもそもうら若き学部生たちに「人生は一度きり、失敗したら二度と取り戻せない」とか「どんなにあらがっても運命には逆らえない」などというノワール的世界観に共感しろというのが無理な話でしょう。

 今回改めて読んでみても、ウィルフォードの小説はそこまで優れた作品とは言い難い。というか、戦後ノワール小説が戦前のノワール小説よりも質的に劣っていることを証明するような作品だと思う。ネタバレ全開で書かせてもらうと、主人公のハリーが「黒人」であることが、彼が零落する理由としてそこまで説得力がない――ノワール小説が持っていた「社会批判」としての側面が弱い――ことをはじめ、ヒロインのヘレンにしても結婚に失敗した過去だけでは彼女があそこまで飲んだくれの自殺死亡者になってしまうことを説明できていない。この作品と非常によく似たホレス・マッコイの三十年代の傑作『彼らは廃馬を撃つ』と比較するとよく分かるのだが、マッコイの小説が資本主義の恐ろしさやどうにもならない大恐慌以後の社会背景をしっかり描くことで、自殺を選び取る主人公たちにきちんと読者が共感できるように書いているのに対して、ウィルフォードの小説はそうした具体的な社会背景が見通せないために、読者は「え、なんでこの人達こんなにダメ人間なの?」と思ってしまう。その上で、最後に「実は主人公は黒人でした」と言われると、説得力のない小説にむりやり説得力をもたせようとした「とってつけた感」がどうしても否めないのです。
 もちろん、こうしたウィルフォードの小説としての「欠点」は、そのまま「理由もなく壊れた人たち」を描く50年代以後のノワール小説の「特質」ともなっている。人間の異常な心理を徹底して描き続けたジム・トンプソンをはじめ、戦後ノワール小説はあえて社会に原因を求めるのではなく、むしろ「理由がない」ことそれ自体を問題として提出することでノワールの新たな可能性を提示した。個人的には、これは探偵小説が必然的に抱え込んでいた問題――殺人を犯す者の動機をリアリズム的に描きつづけると、最終的には殺人者という異常な心理の持ち主の「内面」へと分け入っていかねばならない――への一つの道筋であり、90年代以後の『羊たちの沈黙』をはじめとするシリアル・キラーものの流行を準備するものだったと思える。
 さらに付言しておけば、50年代とは精神分析が大流行し、「健全」な「核家族」が理想化される一方で、そうした理想のもとに様々なものが抑圧された時代である。冷戦構造によってアメリカ社会は「内なる恐怖(=共産主義者)」に怯えていたわけだが、それは個人がたえず「自分が正常であるかどうか」という内なる不安に付きまとわれていた時代でもある。ウィルフォードの小説では「精神分析」が重要な地位を占めるが、戦後ノワールが描く「理由もなく壊れている」人々の存在そのものが、「正常でなければ生きられない」「異常なものを排斥する」社会に対するある種のアンチテーゼである、という読みが成立するだろう。

 ウィルフォードの小説の主人公ハリーは元画家志望の男だが、ウルマーの『恐怖のまわり道』の主人公はピアニストである。トリュフォーが映画化したグーディスの『ピアニストを撃て』(原題は Down There)の主人公もピアニスト。ノワール小説の主人公に芸術家が多いのは、閉塞した日常からの脱出を試みて失敗するノワールというジャンルが、本質的にロマン主義的な欲望とその挫折を描くものだからだろう。
 今回見直して思ったのは、やはりこの映画はヒロインが最高である。のっけから暴言を吐きまくり男をこき使う、ノワールでもまれに見る悪女(ふつうファム・ファタールは良い女を装うものだ)。この物語、ロードムービーの体裁をとっており、未婚の男女が旅をしながら、エキセントリックな女に男がメタメタにされるという点で、実はスクリューボール・コメディに非常に近接している。既成のジェンダー観をぶち壊すという意味で、スクリューボール・コメディがフィルム・ノワールの姉妹であることはよく言及されることだが、この作品ほどそれを如実に示すものはないだろう。主人公が「運命は突然やってきて、そこから逃れることはできない」とはっきり口に出す最後といい、本当にノワールの教科書のような作品である。
 クライマックスで主人公のアルがヴェラを殺害してしまうシーン、彼女を絞め殺した電話線が部屋の中をうねうねと這っていて、これはもちろんタイトルが示唆するアルの人生の「まわり道」を象徴しているのだが、それを眺めながらふと、フィルム・ノワールがフランスで評価された理由を改めて実感した。フランスは理性の国であり、明晰さを好む。フィルム・ノワールという不可解で、曖昧で、不条理なジャンルが、そうしたフランス的な理性が抑圧する「不気味なもの」であったからこそ、フランス人がそこに敏感に反応したというのは、調べたわけではないが何度も言われていることだろうと思う。そしてフランスとは、直線を好み、すべてが明晰に見渡せるシンメトリックでシステマティックな構造を愛する。イギリスはそこからの反発でピクチャレスクな、アシンメトリックでうねうね、ぎざぎざとした形を愛する文化を育むわけだが、果たしてそうしたイギリス人にとって、『恐怖のまわり道』の這い回る電話線が直感的に「不気味なもの」として甘受できたとは思えない。やはりそこは、フランス的な美の感覚があってはじめてノワールの恐怖があるのだろう。

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