『インサイド・ヘッド(原題 Inside Out)』(2015)

 子供のころ学研の漫画とか、似たような教育用マンガでよくあったのを思い出したんですが、たとえば『人体のしくみ』なんていうタイトルで「赤血球くん」とか「白血球くん」とか「マクロファー人」とか体細胞とか酵素が擬人化されていて体の機能を説明する物語になっているやつ――あれを思い出しました(僕のとびきりのお気に入りは名作『うんこのできるまで』でした)。
 普通にとても良く出来た作品なんですが、物語に感情移入しようとしてもどうしても「学研まんが」としての側面が同時にせり上がってきて、果たして「物語」を観ているのか「教科書」で学んでいるのか分からなくなってしまい、ものすごく奇妙な感覚に陥りました。いちおう、ジョイを中心とした少女ライリーの「アタマノナカ」がメインの物語になっているんですが、同時にそれは外側の現実で起きていることを置き換えた「寓話」であることも前提とされている。なので、ジョイやサドネスが苦労していても、なんか人形劇を見せられているような気になってどこか醒めてしまうんですよね。内面世界というのは結局のところ、ライリーという少女が遊んでいる指人形みたいなもので、作品がたえず「指人形たちの劇」と「それを動かしているライリー」とを行ったり来たりするので、「指人形たちの劇」のほうが予定調和の「茶番」に見えなくもないという。
 ビンボンというイマジナリーフレンドが唯一、そうした「一人芝居」の次元から微妙に逃れている存在なのですが、彼が自己犠牲的にジョイを助ける作中ほとんど唯一の感動シーンにしても、「こいつは一体、ライリーの一部なのだろうか、それともライリーの中にある他者なのだろうか」という疑問が頭をもたげてしまい、あまり感情移入できませんでした。
 基本的に、出て来るキャラクターはすべてライリーという主体のなかで何らかの位置づけを与えられていて(忘却、思考、夢など)、そこには心理学や脳科学の教科書的な図式があるんですけど、ライリーを助けるために行動するイマジナリーフレンドというのは科学的にはいったいどういう存在なんでしょうか。ライリーが「悲しみ」を経て大人になるというメインストーリーにはじまり、作品はなにからなにまで全て心理学の教科書のような予定調和の物語であるがゆえに、イマジナリーフレンドの存在の不確かさはちょっとトラウマ的というか、よく考えると怖くないですか?
 繰り返しますけど、本作はいかにもピクサーらしいあらゆる面で定型に忠実なウェルメイドな作品です。だけど、なんか僕はすごーく自己言及的というかポストモダン的な作品に感じられて、戸惑いのほうが大きかったです。

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