小津ノート 2

 これはあくまで「ノート」なので、小津論ではない。というわけで、私がなんとなく、小津を理解するために必要と思われることを備忘録もかねて書き留めている程度のものであることをご留意いただきたい。
 さて、いまとある本を読んでいたところ、気になる引用があったので、孫引きになるが転用しておきたい。国文学者、百川敬人が「もののあはれ」を論じた文章である:

「もののあはれ」の核心は、社会秩序と人間の自由とを本質的に対立するものと捉えた上で、一転、秩序に否定的契機の役割を振り当てこれを足場に被治者のみならず広く人間一般のいわば共苦する共同性を構想し、しかしてその共通の根本気分に「もののあはれ」の名辞を与えることによってこの共同性を概念化しようというところにある。(中略)一方で秩序の規範を尊重しながら他方でそれに従いかねる心を歌うという引き裂かれた心情にあくまで踏みとどまること、それが「まごころ」の本性に忠実な「物のあはれ」の倫理というわけだ。これに堪えるとき、おのずから言外に溢れる悲哀は疎外された大都市の大衆の根本気分にふれ、交響し増幅しあって、現実の諸条件を棚上げに一瞬の共同態を幻出させるのである。(『内なる宣長』)

さすが国文学者、妙に二字熟語が多かったり、共同「体」ではなく共同「態」だったりと、ふだん英語論文を読んでばかりいる私には「ああ文芸批評だなぁ」といった感じで懐かしい。個人の心情と社会規範とは常に「逆立」(私も文芸批評めいてみたくなった)するというのは、「近代」という時代の宿命であり、近代文学一般のテーゼみたいなものである――つまり別に日本に限ったことではない。とはいえ、ここで百川が述べているのは、そのような逆立関係が「もののあはれ」という形で、つまり叙情として立ちあらわれるような文学の在り方で、反対に言えば「つきはなす」ような文学というのもあるのだけれど、確かに、一般の日本人が「文学」と言うときにはどうも叙情の面ばかりが意識されているような気がする。
 小津作品も、基本的にはそのような「もののあはれ」の線で評価されていると言える。というか、そもそもそうした共感を軸にした大衆性あるいは海外向けの「日本らしさ」のような面だけが照らし出され、それに同調するか異議を唱えるかという二極化した受容のあり方が小津批評を支配してきた。蓮實重彦が「小津的なもの」と呼んで、要するに「お前ら(小津ファンもアンチも)小津のことなにひとつわかってねーから。お前らが小津だと思ってるものはお前らが見たい幻想にすぎねーから。いいかげん俺が目を覚まさしてやるから本当の小津映画をよく見ろや」(拙訳)とビーフしたのはそういう状況をふまえてのことである。よく言われる小津の「諦観」も、ここで百川が述べる「もののあはれ」の言い換えと言ってしまって問題ない――「いやだなぁ」と思いつつも「仕方ない」と諦めるモードを指している限りにおいて。
 しかしながら、小津の偉大さとは、まさにそのような近代的条件の残酷さ、繰り返せば社会規範と個人の「こころ」は絶対に調和しない、という点をしっかりと見つめているところにあって、それゆえに作中の人々や、ましてや作品と視聴者のあいだに「共感」を通じた「共同態」などあり得ないという、絶対的な孤独の認識にある(ゆえに『晩春』は偉大な作品ではあるが小津が乗り越えるべき問題を示した作品でもあった)。










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