小栗康平『哀切と痛切』

 佳作ながら非常に高く評価されている映画作家・小栗康平が、処女作『泥の河』(81)と次作『伽椰子のために』(84)の制作・公開の時期を中心として著した文章をまとめたエッセイ集。まず、タイトルが素晴らしい。「哀切」と「痛切」というどちらもなにがしか似通っていて、それでいて異なる二つの意味の重なり合いのようなものをめぐる思索が、小栗自身の半生とともに綴られる。とはいえ、時系列に沿って書かれたものではなく、あくまでその時々の小栗の関心の中に、少しずつ彼の幼年期の心象風景や父母との思い出が浮かび上がってくるのである。この一種の「もどかしさ」こそが、小栗自身が「映画」というテクネーの孕む現実と虚構の奇妙な緊張感に相対するその有様と、見事に重なり合っている。
 「哀切と痛切」とは、小栗が駆け出しの頃に私淑した浦山桐郎の訃報に寄せて、かつて彼に言われた言葉を思い起こすところから来ている:
哀切であることは誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだよ、オグリ。(「哀切と痛切」)
これは「部分と全体」、「見ることの過剰」、「クローズ・アップ考」といった本書所収の他の文章を読めば明瞭に理解できることだが、要するに哀切が物事に対する個人的な叙情にとどまっているのに対して、痛切とはその叙情によって文字通り「身を切られること」、つまり安全な叙情の圏内から他者によって引き剥がされてしまうような事態を指している。そもそも『泥の河』がモスクワ国際映画祭によって高く評価されたのも、川端文学の例に漏れず、どちらかと言えば「哀切」寄りの、寡黙で象徴的な日本的叙情が海外の人間に喜ばれたからであろう。小栗自身が、そのような評価に安穏とできないことを誰よりも真剣に受け止めていたように見受けられる。
 グルジアの監督ゲオルギー・シェンゲラーの作品について語った文章で、小栗は次のように述べる:
『ピロスマニ』は人物が直接、肌と肌を触れていくような展開ではない。私たちはそのことを印象とか心象と勘違いしてしまうが、一人の人物が悲しい、寂しい、孤独であるといったことを表しているように見えて、それはただ悲しいのはない。一人の人間の背後、周囲、それは歴史といってもいい、民族といってもいい、そういう大きなものに連なっていく表情なのである。その時代にかくれている感情が現れてきて、ふだん見ることの出来ない大きな感情が見えてきて、その現れようにこそ作家の表現があるのである。(「ピロスマニ」)
これは個人よりも政治や歴史を描くものが素晴らしい、と言っているのではない。むしろ、そうした大きな物語はそもそも感情とは無縁のはずだ。だが、小栗は「その時代にかくれている感情が現れて」くると述べる。そこには、普段は見えないはずのものを見るという間接性、批評性、すなわイロニーがある。小栗の文章は、彼自身が「映像」というものに対して、あるいは映像をなりわいとする者として「現実」に相対することにおける、イロニーに満ちている。彼は現実をそのまま撮るような、あるいはあらかじめ計算された世界を再現するような、そのようなナイーブさからは無縁である――というより、そんなことができるはずがないと思っている。
 シラーはかつて、先行する古典時代の詩人たちの「ナイーブ」さに対して、イロニー抜きにして言葉を紡ぎえない自分たちの世代の感性を「センチメンタル」と名づけた。これはそのまま、「哀切」と「痛切」に置き換えることができるだろう。作者が、被写体が、あるいは読者が、ただ「悲しい」という思いを表現しそれを共有できるのならば、そこにあるのは、現実という名の虚構の再生産でしかない。「泣く」という記号は映っているかもしれないが、そこには「涙」がない。
新美南吉に片仮名で書かれた短い文章がありました。あるカタツムリが自分は背中に悲しみを背負っているのではないかと思い始めて、別なカタツムリにに聞きに行きます。するとその別なカタツムリはそれは自分にもあるというのです。カタツムリはそうだろうかと思って、また別なカタツムリのところへ行きます。答えは同じでした。(「Jさんへ」)
痛切であるということは、私たちがよく見知っている景色の中に、映し出されることなく埋没した感情を掬い上げることである。誰かが流すはずだった涙を、私たちが代わりに流すのだ。


『哀切と痛切』は残念ながら絶版のよう。平凡社ライブラリーは面白そうな本があってもわりとすぐに絶版になってしまう。

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