成瀬巳喜男『女が階段を上る時』(1960年)

 『女が階段を上る時』は、以前このブログで絶賛した『流れる』に引き続き、夜の世界に生きる女の苦労を描いた作品。『流れる』に勝るとも劣らない傑作でした。
 脚本は黒澤映画の傑作をいくつも著してきた菊島隆三。舞台を銀座において、『流れる』で山田五十鈴の(遊女になんかなりたくない、と言っていた)娘役の高峰秀子が「旬を過ぎかけている」バーのマダムを演じている。『祇園の姉妹』→『流れる』→『女が階段を上る時』はぜひ続けて観て欲しい。女優を通じて「男社会に振り回される女の人生」を年代順に描いた一大絵巻になっている。このなかで一番新しい時代を描いている本作は、音楽に黛敏郎を起用して、ジャズ風味のモダンなサウンドを背景に、洋装のホステスも多数登場する。
 この作品は、根幹となっている物語も骨太で素晴らしいが、脇を固める役者たちもみな輝いている。欲にまみれた世界で一人清純に生きようとする高峰秀子を勝手に崇拝して、最後にはエゴをさらけ出してしまう仲代達矢、いつもどおりの気の良いのんき者かと思わせてとんでもない正体を露わにする加東大介あたりがとにかく最高。
 物語の後半、必死で守ってきた操をしょーもない男に捧げてしまい、本当に好きだった男も結局は体目的であったことが分かり、そこにいまさら純愛を説いてくる仲代達矢がやってきて、というくだりの、あの緊迫した時間の持続は、まるでカサヴェテスの『こわれゆく女』を観ているようだった。
 映画はすべてを諦めた高峰秀子が夜の女として生きていく決心をするような形で終わる。それは妥協であるし、高峰秀子の亡き夫への貞操というものにそれほどの合理性があるわけではないのだから、むしろ現実を受け入れ成長としたと見ることもできる。もちろん、それはそれで良いと思う――生きるというのはそういうことだ。しかし、物語としては、それは強烈な自我を持っていた個人が、群衆としての「女」という記号に溶ける瞬間でもある。
 遊郭の世界に生きる女は、「特殊な世界」に生きているのだし、「自ら性を売り物にした」のだから「自業自得」だ、という単純な感想を抱く者が、もしかしたらいるのかもしれない。しかし、成瀬は確かに夜の世界を徹底してリアルに描いているが、だからこそ高峰秀子が演じるホステスは男性優位社会で生きるすべての女性のメタファーとなっている。結局のところ男は「婚期を気にする」必要もなければ結婚によって「生活」を確保する必要もなく、「家庭への愛」と「女への欲」の間で矛盾を感じて苦しむ必要もない。ところが、女の方といえば、あたかも純愛であるかのように愛を口ずさむ男どもが「本当は性欲だけで近寄っているのではないか」などということを、絶えず問わざるをえない状況に置かれている。もちろん、人間の真意などというものは本人だってよく分かっていないのだから、これらは問えば問うほど深みにはまる泥沼のような難問だ。だが、高峰秀子のように「誠実」で「賢い」女性ほど、こうした難問があることを簡単に「無視」することはできないだろう。
 この映画は1960年の作品だが、70年代フェミニズムを経て、2010年代が終わろうとする現在でもなお、この作品に描かれた不平等な状況はほとんど変わっていないように思われる。

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