君の名は。

 2017年最初に観た映画は『君の名は。』になってしまいました。「自転車で行くとちょうどいい運動になるから」という理由で数年前から毎年コミケに通っている友人は、この映画にハマりすぎて既に4、5回は観たらしい。こんどIMAX上映されるらしいのでもう一度行くとも言っていた。

 で、感想なんですが、まぁストーリーはもはや突っ込むのすらめんどくさい!前半20分くらいまでは面白いんだけど、そこからは興味が急転落下してゆき、後半はもはや茶番。二人の名前を書こうねって言ってるのに「すきだ」とか、お前はガイジかよ。つーかギリギリ間に合わすために落下速度を調整してくれる彗星さん空気読みすぎだろ、みたいな。「世界の崩壊」が「恋愛」のための茶番になってしまうという点では、『崖の上のポニョ』と非常によく似た作品だったとも思えます。スタッフもほとんど同じだし。

 私は新海監督の『言の葉の庭』で描かれる新宿の町並みがとても好きで、アメリカに住んでいるいまもホームシックになったら(まだなってない)まずあの映像を見たいと思うぐらい、彼の描く東京の風景は美しいと思う。今回の『君の名は。』では新宿と岐阜の田舎が出てきますが、どちらも本当に美しい(あと、和室にゴテゴテと家具を置いてるのにおしゃれに見える感じとか、アニメでしか表現できない良さですね)。新海監督にとって新宿はフィッツジェラルドにとってのマンハッタンみたいな、特別な意味を持つ場所なんだろうということが伝わってきました。ただ、ドコモタワーをエンパイアステートビル並に執拗に描くのには笑ってしまった。

 あと、いろいろと作者の「童貞イズム」が指摘されていますが、私が一番「童貞くせぇぇぇ」と感じたのはバイト先の年上の先輩(名前忘れた)の私服のセンスです。やっぱり女子高生とかはそもそもが現実と架空の境界みたいな存在なので(男子校出身の私にとってはむしろ幻に近い)いくら美化されても気にならないのですが、あーいう20代のリアルな女性を描こうとうとすると作家の「現実感覚」がモロに出てしまいますね。新海監督って、どう考えても「年上の女性フェチ」なのに、大人の女が描けないんですよ。『言の葉の庭』の先生(『君の名は。』にもチラッと出てたあの国語の先生)とか、あと今作のラストで成長した三葉とか、「大人の女」っていうよりは「母」だし、そもそも二人の主人公のどちらも母親がいない――作品そのものに生きている母親が出てこない――というのは、ものすごく露骨なコンプレックスが現れている気がします。たぶん、監督にとって「母」はあまりに神聖なものなので、「性」を感じさせる「大人の女」を描こうとすると、どうしてもバイト先の先輩みたいな「キャバ嬢」系の人というステレオタイプに頼るしかなくなっちゃうのだろうな、と。

 あと、私は「セカイ系」という言葉の意味をよく理解していないので、「キミとボクの関係(恋愛)が世界の成立/不成立と地続きになっている物語」で「他者=社会が捨象されている物語」という程度の意味で言うんですが、そういうセカイ系って、従来でいうメロドラマとも恋愛物語ともまったく異なった思考回路に成り立ってますよね。というのも、Peter Brooks という研究者に依拠すると、メロドラマというのは神話や宗教譚が力を失っていったフランス革命後の理性中心の時代において、人間の日常的なドラマを描くことで社会秩序としての倫理を同時に大衆に教育する役割を果たしてきたもの――ようするに何が「善」で何が「悪」かを決めつけるためのイデオロギー装置だったわけです。しかし『君の名は。』みたいな話には、そういう善悪とか倫理の問題は(社会が存在しないので)まったく登場しない、ゆえにメロドラマとは言い難い。
 他方で、少女漫画を始めとした「恋愛」ジャンルとしても、私は個人的に恋愛映画とか恋愛漫画とかが好きだからなおさら違和感というか不満を覚えたのだけれど、『君の名は。』の二人の主人公がなぜ互いに好きになっていくのかという過程がまったく描かれないので、これは「恋愛もの」ですらない。じゃあセカイ系とはいったい何を描いているのか、あるいは何も描いていないのか、という点が気になるわけです。

 まぁたぶん既にどっかの批評家が言っているのだろうけど、本質的にはセカイ系が(『君の名は。』が)描いているのは「無条件に愛されたい・認められたい」という自己承認欲求の満足なのだろうと思います。端的に言えば、『君の名は。』は「あー彼女欲しい!どっかに運命の相手がいないかなー!」という妄想を満たすための物語です。しかも、実際に彼女が出来て、付き合って・・・という現実の面倒くさいことは一切描かない潔さ。
 ちょっと古いけど『魔法少女まどか☆マギカ』とかも「世界のために犠牲になる私」という恋愛とは別の回路での「自己承認欲求の満足」の物語だったし、そういう思考回路はイスラム国に参加したがる若者なんかも共有しているので、日本のオタク=テロリスト予備軍みたいな危険な見立てをしたい欲求にかられたり。
 それはともかく、21世紀に入っても、セカイ系の時代は終わるどころかまだまだ続いている様子。90年代に連載開始した『ワンピース』の根強い人気などが、そうしたことを象徴しているように思えます(ここで詳述する気はないけど、『ドラゴンボール』を始めとしたこれまでのバトル漫画から「リアリズム」を排除して、「俺」と「お前」のどっちが「意地」を通すのかという「自己承認欲求同士の闘い」に純化したのが『ワンピース』におけるバトルだと思います。故にやたら戦闘中の口上が多い。

 全然関係ないけど、最後の「君の名前は?」のシーン、千鳥が「お主の名は?」って言って「お主じゃないんじゃぁぁ」っていう漫才やってくれたらすげー面白いのにな、とリアルタイムで脳内再生していたので、感動のラストもまったく感情移入できてませんでした。
 あと、もともとストーリーが薄っぺらいのをちょいちょい「総集編」みたいな演出入れてくるのと、RADWIMPSの使いすぎで、映画というよりはミュージックビデオを繋いだみたいな作品になっているように感じた。というか、そもそもこれは「映画」としてではなくRADWIMPSの泣けるPVとして観ると、そこそこ良い作品だったと言えるのではないだろうか。いや、PVでこのクオリティはむしろ超スゴイ。これは傑作だ!!(茶番終わり)

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