ラオール・ウォルシュ『彼奴は顔役だ!』(1939; Raoul Walsh, The Roaring Twentieth)

 柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)をパラパラとめくっていたら、蓮實重彦が『夏目漱石論』を書いていたとき、ラオール・ウォルシュの映画の文法を意識していたと言っていた。ラオール・ウォルシュといえば、西部劇の傑作『ハイ・シエラ』とフィルム・ノワールの傑作『白熱』を撮った監督だ。その文体で批評を書くとは、またけったいなことを言っているなと思ったのだが、それはともかく、ウォルシュの作品を見たくなったので、朝から一本見てしまった。
 邦題はたぶん最後の「彼は大物だったわ」("he used to be a big shot")から適当につけたのかもしれないが、日本ではたしかに「狂騒の20年代」(The Roaring Twentietth)は伝わりにくいだろう。逆に、20世紀アメリカモダニズム文学の、しかも修士ではフィッツジェラルドをやっていた研究者としては、この映画のことを今まで知らなかったのは悔やまれる。
 39年の作ということで、20年代はそう昔のことではない。いまの人が、90年代を映画化するようなものだ。というわけで、この映画はある程度リアリティがあるのかもしれない。そう、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』でギャツビーがとんでもない豪勢なパーティーを開いていたり、一方で警察に賄賂を渡している様子があったりウルフシャイムというユダヤ系のギャングと仲良くしていたりというのは、現代の読者からするとやや「マンガ的」に思えるかもしれないが、20年代には実際にそういう裏稼業の人間がたくさんいたのである(ギャツビーやウルフシャイムのモデルになった人々も実在する)。
 『彼奴は顔役だ!』は典型的なギャング映画と、少々のノワールっぽさを併せ持った傑作だが、20年代とはそうしたギャングや暴力がアメリカ社会の文化として登場した時代だ。もちろんアル・カポネをはじめとするギャングがいたからこそ、ギャング映画が一大ジャンルになったのだし、30年代以後の犯罪モノ映画には、そうした裏社会の人間を社会に対する反抗者として、アンチ・ヒーロー視する見方が現れた。今作にしても、主演のジェームズ・ギャグニーは復員兵で、自分を受け入れてくれない社会にいわば反抗するような形で裏稼業を邁進してゆくことになる。元戦友のハンフリー・ボガードが似たような境遇ながら本当に「悪いやつ」を好演している。
 ボガード繋がりで言えば、『マルタの鷹』でアイヴァを演じていたグラディス・ジョージも出演している。個人的には、今作のは白眉は彼女だと思う。そもそも、ギャグニーはプリシラ・レイン演じるジーンという堅気の少女に入れ込んで裏切られるのだが、ジョージ演じるミス・パナマもまたギャグニーを一方的に助けつづける。少女漫画とかでよくある、大好きな男が他の子に恋しているのを応援しつづける親友ポジションのそれだ。彼女の「永遠の二番手」感のある顔つき、自分のほうがだいぶ年齢が上ということもあって 女として見られなくてもいいとは思っているんだろうが、それでも時折見せてしまう哀愁のある表情――そうした演技がこの物語に深みを与えている。
 正直、今作はギャング映画というより恋愛映画として観たほうが面白いかもしれないぐらいだ。好きな女の子に親友を寝取られて、数年後に再会したときには自分は落ちぶれて、相手は高給取りの旦那と子供が生まれて幸せの絶頂期。それなのに彼女の旦那がギャングに脅されて、かつて自分を裏切った女が再び自分のところに助けを求めてくる。どうせ助けたところで、自分に見返りがあるわけでもない――これはノワール好きにはたまらない胃が痛くなるシチュエーションである(ノワール好きというのは結局、NTR好きのことではないだろうか笑)。このように典型的なノワールの物語だが、そんな男をずーーっと、本当に何一つ見返りを求めることなく支えてやった女が最後を看取ってやる、というオチの付け方が今作の素晴らしいところ。やはりグラディス・ジョージがいてこその名作なのだ。

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