こうの史代『この世界の片隅に』

 ずーっと観たいと思っていた映画『この世界の片隅に』をようやく観ることができた。夏に日本に一時帰国した際にもタイミングが合わず見逃しており、あまりにも評判が良いのでかなり期待して観た。
 が、個人的にはかなりがっかりな出来だったと思う。断っておくと、私は原作の漫画に関してはかなり高く評価している。というか、そんな上から目線ではなくて単純に素晴らしすぎて何度も感動し、何度も泣いてしまった。漫画が伝える倫理観は私が常々考えていることと同じように感じられたし、その意味で小津やカサヴェテスの作品に比肩しうる優れた芸術作品だと思う(小津についてはたとえばここここを参照)。

 映画版は尺の都合なのかずいぶん「間」が消失した慌ただしい演出で、そのために原作のギャグのほとんどを「つぶして」しまっているし(そのわりにはさして重要でないシーンを変に冗長にしていたりする)、重要なシーンをカットしたり、重要なセリフを飛ばしているせいで登場人物の心情がかなり理解しがたいものになっている。正直、原作を読まないでこの映画を観て、すんなり「良い話だった」と感動できる人はちょっとバカなんじゃないかと思う。
 それと、アニメーションとしての演出も特に優れたところがないし、原作はすずさんにとって「絵を描く」ことがいかに特別な意味を持つかを、実際に漫画として様々な工夫に満ちた表現をすることで伝えているわけだが、アニメーションではそれらの工夫がほとんど消失している。端的に言って、表現物としてのレベルが映画版ではだいぶ下がってしまった。たとえば、広工廠の上空を飛行機が突っ切った直後、地上が崩壊するというゾッとするのようなシーンが、映画では衛星写真を模した珍妙な演出に変わっていた。これでは観ているほうも、何が起きたのかあまり分からないのではなかろうか。

 原作を読み込んだ立場からすると、映画版はことごとく「ツボ」を外している。はっきり言って、監督はこの作品をきちんと理解できていないんじゃなかろうか。そのことを端的に示すのが、りんさんの存在を大幅にカットしたことである。長尺版の制作が決定したそうなので、おそらくそちらではりんさんのシーンが復活しているのだろう。だが、これは単に尺の問題ではない。りんさんを削るというのは、まさに作品のコアを削るということである。画竜点睛を欠くの「睛(ひとみ)」がりんさんなのだ。
 もちろん、りんさんを削ると、すずさんと周作との三角関係も削られるので、この夫婦の情愛が育まれていく過程もカットされることになる。だがなによりも、りんさんとはすずさんにとっての「あり得たかもしれない人生」であり、作品の根幹となるメッセージを担うキャラクターなのである。「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」というりんさんのセリフ(映画ではなぜか何の文脈もなく回想シーンでりんさんがこれを言っていた。酷すぎる演出だ)が、「この世界の片隅に」居場所を見出して生き延びてゆくすずさんの倫理へと受け継がれることは、原作を読めば普通に理解できることなのだが、どうもこの映画の監督には分からなかったらしい。
 原作では、右手を失ったすずさんの頭上に、失われた右手が幻のように触れるシーンがある。映画もこのシーンをいちおう残しているが、前後の文脈を変えてしまったのもあって、その意味をまったく抽象的なものにしてしまっている。実は、この右手はすずさんの失われた右手であると同時に(つまり想像力が彼女を見捨てていないというメッセージであると同時に)、おそらく亡くなったであろうりんさんの右手でもあるのだ。
 そのことは、映画ではカットしてしまった、すずさんが「右手……どこで何をしているんだろう」と独り言つ直後のシーンで明らかになる。原作では、その直後、右手がクレヨン画のようなタッチで素朴な漫画を書き始めるのだが、その内容はすずが直接は知らないはずの、りんさんの半生なのだ。そして、そのりんさんの半生を描く漫画と互い違いに挿入されるのは、失った右手で周作の手を握ってやりたいと願うすずさんの姿である。すずさんが「右手があれば・・・」と思うのと呼応するように、「右手」は「周作の手にそっとりんさんの右手が重なる」過去を描く。そして、りんさんの茶屋の跡地で割れた茶碗を見つけるすずさんが、彼女の死を悟ると同時に、「右手が画くりんさん」の姿に現実のすずさんがそっと寄り添うことで、この回は終わる。
 このようなシークエンスを見れば、「失った右手」を通じてりんさんがすずさんと一つになる、すずさんが彼女の死を引き受けて生き続ける決心をする、という作品の意図は火を見るより明らかだ。そしてそれこそが、作品の最後にすずさんが述べる、「生きとろうが 死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんその記憶がある うちはその記憶の器としてこの世界にあり続けるしかないんですよね」という言葉の、具体的な意味だ。
 『この世界の片隅に』が示す倫理とは、そのような「欠けたもの」「不完全なもの」でしかない人間、何かを失い続けることでしかありえない人生というものが、まさにその「欠損」を通じて繋がり合う、ということへの肯定――「持たざる者」の倫理である。だから、映画はあまり強調できていなかったけれども、最後に母親を失った少女が「母親と同じように右手がない」すずさんを見つけるのだし、逆に子供のいない、晴美ちゃんも失ったすずさんと周作の夫婦は彼女を見つける。ここには、「ひたすら得つづける」「強者」だけを肯定するようになる戦後日本の価値観とあらかじめ逆行するような、「失いつづける」「弱者」のための倫理がある。そしてそれこそが、いまや「弱者の国」となった現代日本の読者の心を打つのではないだろうか。

 というわけで、私には映画はこうした作品についての根本的な理解を欠いているよう思えた。主演の能年玲奈も、努力しているのかもしれないが、そもそも脚本が読み込めていないと思えるような素っ頓狂な演技が目立った。が、そもそも監督が作品を読めていないのだから、役者も困っただろう。
 
 最後に、けっこうな議論となったらしい終戦の日にすずさんが「韓国旗」を見るシーンだが、もちろんこれについても「戦争被害者である一般の日本国民は、同時に朝鮮人の抑圧の上に生活していた加害者でもあった」という原作の意図そのものを変えていない以上、わざわざセリフを改変する意義は見いだせないし、演出としてもより稚拙になったと思う。だが、それよりも問題なのは(どうもあまり指摘されていないようだが)、韓国旗を見る直前にすずさんの胸に去来する「この国から正義が飛び去っていく」というセリフをカットしていることだ。ここは、「なぜ晴美ちゃんが死に、自分が生き延びてしまった」のかすら理解できないまま、帝国の「正義」に頼ることでなんとか保っていた自我が、突然の終戦によって裏切られる、というシーンである。ようするに、それは軍国主義というイデオロギーが「不条理な死」と「生き延びた者の罪悪感」を昇華するための最後の拠り所でもあった、という鋭い視点と、そのような「狡い」エゴイズムを露呈するすずさんの「人間らしさ」とが同時に表現される、作品における白眉なのだ。韓国旗とは、そうした自己欺瞞のための「正義」が実は他の誰かを抑圧することで成り立っていたのだ、という事実を突きつけるものであり、決して単なるポリティカル・コレクトネスの問題ではない。こうした点も、「この映画作ったやつら、分かってねぇな〜〜」と思わされた部分だ。

 というわけで、私は別に原作厨とかではなくて、映画は映画として判断するものだと思っているけれども、別に映画ならではの演出とか長所があるわけでもなかったので、楽しみにしていた映画『この世界の片隅に』は原作漫画の「残念なダイジェスト版」という感想に終わってしまった。冒頭の「悲しくてやりきれない」とかも、なんであーいうエモい声の歌手を採用したんだろう、と思ったし(普通にフォーク・クルセダーズのままで良くないですか?)。

 以上、自分でもドン引きなぐらい酷評でした。もし映画を観て感動した人は、絶対に漫画を読んだほうが良いです。漫画を読まなかったら、『この世界の片隅に』という作品を知らないのと同じだと断言します。

コメント

人気の投稿