ナショナリズムについて

 私はいろんなことに興味があるので、いつもいろんな本を読んでは「なるほど」と感心しているのだが、人間というのは自分の生活に直接関わりのないことはどんどん忘れるようにできているので、学んだことのほとんどはあっという間にどこかへ流れ去ってしまう。
 その最たるものが、受験勉強で、大学入試に関してはそもそもほとんど勉強していないので忘れるもの自体があまりなかったのだけれど、数学や物理なんかの知識は本当に綺麗さっぱり消えてしまった。中学受験のためにさんざん覚えた世界史や日本史の知識もさすがに30代になると、かなり失われたように思える。
 逆に、アメリカ文学の研究をしていると、結局は近代の歴史や思想についてある程度は参照しなくてはならないので、それなりに保たれている知識もある。しかしこれにしても、なんというか「業界の常識」みたいなものが刷り込まれていった結果、教養という意味での大きな見取り図のようなものがいつの間にかぼんやりと曖昧になっていたりする。
 今日はそんな曖昧な知識の一つ、「ナショナリズム」についてネットで30分くらい勉強し直してみた。

 まず、この業界(笑)でナショナリズムと言えば、ベネディクト・アンダーソンである。ざっと見たところ、彼の「想像の共同体」としてのネイションとか、ナショナリズムは近代社会の産物みたいな議論は、基本的に修正されていないようだ。文学研究は基本的に歴史学や社会学、哲学の後追いみたいなところがあるので、実はとっくに古くなった学説が未だに猛威を奮っていることがよくある。アンダーソンに関しては、まだ大丈夫らしい。
 そして、アメリカ文学でナショナリズムと言うと、普通は独立戦争以後、19世紀初頭に徐々に「国民文学」としてのアメリカ文学が意識・形成される時期を思い浮かべる。プリマスロックが観光地になったり、南北戦争で危機的状況に陥ったりと、19世紀を通じてナショナリズムはアメリカ史の重要なファクターになる。

 世界史では、普通ナショナリズムは1789年のフランス革命とその後のナポレオンによるヨーロッパ侵攻をもって一つの始まりと捉える。もちろんアメリカ独立戦争がその前に直接のファクターとしてあるけれども、要するに「自由で平等な市民」という「理念」を共有する「国民集団」としてのネイション及びナショナリズムというフランス式の考え方がここに誕生し、同時にナポレオンにボコされたドイツを初めとして革命を押さえ込みたいウィーン体制後の諸国家による「共通の歴史・言語・慣習」を有する文化的に同質な集団としてのドイツ式ナショナリズムも生まれる。
 文学史では、20世紀初頭の第一次世界大戦においても「文明 (civilization)」対「文化 (culture)」という対立概念が用いられていることがよく言及される。20世紀初頭はちょうどアメリカでも「アメリカ語」は可能かといったナショナリズム的な運動が巻き起こったりしていて、移民問題なども相まってアメリカ人が一種のアイデンティティ・クライシスに陥っているので、こうしたナショナリズムをめぐる図式が重要になるのである。

 さて、ナショナリズムについて次に興味深いのは、早期に革命と産業革命を成し遂げて市民主義的に富国強兵へと乗り出していったフランスやイギリスのような国と、完全に乗り遅れた結果、国家による強制弾圧によってまとめ上げねばならなくなったドイツやロシア、日本といった後発国との違いだ。前者が「自由・平等」を求める自由主義的な運動とナショナリズムがうまく合致したのに対して、後者はしばしばナショナリズムのためにマイノリティの権利が否定された。
 その後のナショナリズムの行方はまさに各国家によって様々であるが、個人的に興味深いのは日本、トルコ、ギリシャあたりにおけるナショナリズムと文学の関係である。いずれも近代国家の形成においてナショナリズムを上手く取り入れられなかった、歪な国々である。ルカーチやアンダーソンを援用するまでもなく、文学は国民国家形成のための重要なツールだ。夏目漱石が新聞に連載していたのなんか最も分かりやすい例だろうが、近代文学を理解する上でナショナリズムをめぐる政治学は不可欠だし、それはそのまま国民国家の統治ツールとなった「言語」と悪戦苦闘した作家自身の政治闘争として眺めることもできる。これはまさにモダニズムの核心的問題である。
 アメリカ文学では、19世紀のメルヴィルが既にしてこのような言語への強烈な自意識を露わにしていたが、彼を再評価したのは20世紀のモダニストであり、同時代にメルヴィル的な問題意識をはっきりと受け継ぎ推し進めたのがウィリアム・フォークナーだ。彼の文学が、その後、独立や内戦といった様々な「近代国家」の問題にぶちあたることになった第三世界の作家たちにとってのバイブルとなったことは言うまでもない。

 日本文学に関して言えば、たしか伊藤整が『文学入門』で追記 アップした直後に読み直していて気がついたが、これは伊藤整ではなく中村光夫の、『小説入門』でなくて『風俗小説論』に書いてあったことだ)日本近代文学と「私小説」について、日露戦争との関係で説得力のある見取り図を描いていたが、例のごとくどんな話だったかはすっかり忘れてしまった。たしか、日本の作家が西欧における「自然主義」をきちんと理解しないまま、むしろその基準で言えば「非自然主義」的な叙情を撒き散らす「私小説」へと向かってしまったことを批判していたような気がする。
 
 すが秀実が『日本近代文学の〈誕生〉―言文一致運動とナショナリズム』というそのものズバリな本を書いているので、とりあえずここから入るのもいいかもしれない。タイトルからして柄谷の『日本近代文学の起源』を意識しているのは間違いないと思うが、柄谷のは名著だけれども「日本近代」という歴史性が意図的に抹殺されている。すが秀実の本は「誕生」と銘打っているだけに、そのような歴史性を復権するものであれば嬉しい。もしそうなら、それは見事にド=マンの方法論で書かれた柄谷のポスト構造主義に対する、新歴史主義的な応答になっているはずだ。
 以上。

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