Three Billboards Outside Ebbing, Missouri (2017)

 日曜の朝は映画が普段の半額(6ドル)なので、最近は古い映画ばっかり観ていましたが久しぶりに劇場で鑑賞してきました。既にほうぼうで高い評価を得ているマーティン・マクドナー監督・脚本の『ミズーリ州エビング郊外の三枚の立て看板』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)です。
 マクドナーは劇作家としての評価を確立しているだけあって、かなりブロードウェイ的な舞台劇っぽい演出の光る作品。ベテランの役者陣がFワードを連発しまくっていて、観客はみんな大笑いしていました。日本公開が決まっているらしいですが、これに字幕をつけるのはかなり苦労するだろうなと思います。
 作品としては、かなりクリント・イーストウッドの作風に近い感じがします。あとは無骨なアメリカの田舎の人間関係のドラマがちょっとサム・スペードっぽい。

 物語は非常に良く出来ていたのですが、舞台劇っぽいという作品の性質上あまり社会関係とか主要キャラクターの周囲の人々がどこにいて・何を考えているのかといったことが描かれないんですよね。例えば、小さな町なんだから女性一人で娘のために戦う主人公に共感してくれるマジョリティ側の白人女性・主婦たちがいてもおかしくないのに、そういう人は一切出てこない。そのせいで、途中でふっと我に返って、「いやこの話、2、3人のクズ野郎どもが問題を引き起こしてるだけで、そいつらさえ排除すれば平和じゃん」と思ったりしてしまいました。要するに、マッチョ主義に毒された暴力的で白人至上主義のホワイトトラッシュがひたすら周りに迷惑かけている話、「これだから白人は・・・」という話にも見えてしまう。もちろん、最後まで見ると「あー、でもこいつもイラク戦争行ってたのか」とかちゃんと一面的にならないような作りにはなってるんですけどね。

 この映画の一番のテーマは、立て看板の「表」と「裏」が象徴するように、人や物事を一面的に判断するするな、ということなのは見れば明らかです。アメリカは根本的に反知性主義の社会なので、特に偏見や思い込みが烈しいです。反知性主義というのはエリートの専門家が過剰に権威をもつことに対する批判としては価値があるのですが、翻って一般の人々が単に「人気のある人」とか「見た目が美しい人」の言うことは信じて「なんとなく嫌いな人」「ブサイクな人」の言うことはとりあえず疑う、みたいな非常に困ったことになりやすい。というか、日本も含めてほとんどの社会はダメな意味での反知性主義社会になってますね。僕が特にアメリカ社会について嫌いなことの一つが「家族至上主義」で、映画なんかでもものすごい顕著ですけど、美しい妻や子供がいて家族を愛している父親みたいな存在が無条件に「良い人」として尊重される文化が大嫌いです。これはたぶん50年代に核家族を礼賛・神秘化したのがずっと尾を引いていると思うんですが、とにかくアメリカは「家族」が免罪符みたいになっていて、どれほど傲慢な人間だろうとクズ野郎であろうと「家族」にまつわるお涙頂戴のストーリーさえでっち上げれば許されるみたいな雰囲気が強いです。
 今作も、「人にも物事にもあなたが気がつかない思わぬ一面があるものですよ」という至極真っ当なメッセージを伝えているんですが、ウディ・ハレルソン演じる保安官だけがそれを免れてほとんど聖人みたいな扱いになっているのが解せませんでした。そもそも主人公以外の女が全員非現実的なのもこの映画の数少ない欠点の一つだと思いますが、ハレルソンの奥さんなんか典型的なトロフィー・ワイフだし、家族を溺愛する彼は「ガンに冒されていて」「街を愛する保安官」で「厩舎のある広い家で美しい馬を飼っている」んですよ。まさにアメリカ人の大好きなメロドラマ的設定のオンパレードじゃないですか。
 もしかすると、そこまで「完璧なアメリカのパパ」であるハレルソンが『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を初めキチガイ殺人鬼の役ばっかりやっているということを含めての間テクスト的なネタなんでしょうか。

 と、どうしても気になった部分だけ貶しちゃいましたけど、映画としてはかなりの傑作でした。後味も良いし、おすすめです。

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