ルイス・ブニュエル『ビリディアナ』

 ブニュエルが1961年に発表した映画『ビリディアナ』は、彼の国際的名声をよりいっそう高めたが、同時にバチカンやフランコ政権下のスペインからの烈しい反発も招くこととなった。これは『黄金時代』を思い起こさせるような事件だ。
 作品自体は確かに非常に面白い。金髪のビリディアナが陵辱される様や、繰り返される足フェチ描写などは「ブニュエル映画」の定番だし、「神の国を実現しようとした女性が理想を粉々に破壊され、資本主義的な世俗性に堕ちる」というプロットは非常に分かりやすい。同時代のニューヨークタイムズの批評が述べたように、そこにはいささか凡庸なきらいすらある。
 しかし、例によって四方田犬彦の『ルイス・ブニュエル』を紐解いてみると、映画はかなり複雑なスペイン文化へのインターテクスチュアリティに満ちていることが分かった。ブニュエル自身、「ビリディアナはかなりの程度、スカートを履いたドン・キホーテだ」と述べているらしい。「スカートを履いたドン・キホーテ」とは良い言葉だ。20世紀の初頭に活躍し、アメリカ初のノーベル文学賞受賞者ともなったシンクレア・ルイスの代表作である『本町通り』の主人公など、まさにそれである。四方田の指摘によって、この映画がガルシア・ロルカの「夢遊病者のロマンス」を参照していることや、作中で少女が言及する「黒い牛」がロルカの『ベルナルダ・アルバの家』からの引用であることを知った。あるいは、ビリディアナが貧者らと祈りを捧げるシーンがミレーの『晩鐘』へのアイロニカルな参照であることも、言われてみればなるほど、と思うところだ。この四方田の書は、主に映画で起きている事実関係について時として驚くほど酷い誤りが散見され、研究書として世に出すにはいささか不誠実なところがある。が、『ビリディアナ』の記述に関して言えば、先行研究を踏まえたアカデミックな著作ならではの濃厚な記述を堪能させてもらった。
 個人的には、少女が飛んでいた縄跳びが、とりわけその把手がファリックなシンボルとなり、乞食の一人にわたり(彼はそれを腰に巻く)、最終的にビリディアナがレイプされるシーンで彼女がそれをしっかりと握りしめることでその象徴的な役割を完了させる、というのが面白かった。非常に文学的な、スムーズな象徴の使い方である。もちろんビリディアナが本当にレイプされたのかは不明なのだが(挿入されていない、と考えるほうが多少自然な気がする)、彼女が二度にわたってそのような目に合い、しかも姦通をほとんど事実として受け入れてしまっているのも興味深い。そこにはもちろん、彼女の権威へ依存した生き方や夢遊病者という性質が示唆するように、彼女自身のマゾヒスティックな欲望が垣間見える。これは「女はレイプされたがっている」という男の身勝手な欲望とも重なっており、いったい真実はどこにあるのか、見極めることは難しい。そもそも、姪を嫁として迎えようとする叔父にはじまり、三人婚を示唆するエンディングに終わるこの映画は、「男の身勝手な欲望」に満ちている。
 叔父のキャラクターがまたやっかいで、ブニュエルはこの叔父を「唾棄すべき変質者」であり「憐れむべき寡夫」でもあるという人物として描いている。話の展開からして、観客がある程度、彼に共感することが期待されているのは間違いない。四方田も指摘していることだが、後半の宴会シーンが前半の叔父の求婚をカーニバル的にパロディ化していることからも、叔父の存在にはある種のノスタルジーや神聖化がなされている。映画がスペインにおける農本主義的・貴族封建主義的な秩序の解体と、資本主義的な近代社会の到来(映画では叔父に認知されなかった息子が担っている)を描いているのは明らかだが、そういうところからも、荒廃しつつある農園屋敷に住むこの妙にメランコリックで貴族主義的な叔父の姿はアメリカのウィリアム・フォークナーが描く南部白人の姿と非常によく似ている(特に父ジェイソン・コンプソン)。
 圧巻なのはやはりその旧世代の美徳を象徴する屋敷で貧者たちが大暴れする饗宴のシーンで、彼らが『最後の晩餐』を模倣する場面には言葉に尽くしがたい美しさがある。

コメント

人気の投稿