丸谷才一編『探偵たちよスパイたちよ』

 探偵小説が好きな人にも、とりたててそうでない人にも、幅広く薦めたくなる名アンソロジー。巻末で瀬戸川猛資が「アンソロジーとは何か」ということを語っているが、ようするにアンソロジーとはフランス料理のコースのように、頭から終わりまでよく練られ構成された一冊の本であり、腕をふるうシェフのようにそれを編む人の力量がものをいう。
 とはいえ、世の中には単なる名作集のような凡庸なアンソロジーは数多い。その点、本書は短編や散文詩、エッセイ、対談などなど、幅広いジャンルから、まさに「これは」と思わせるものばかりを集めていて、出版から数十年が経とうとしている現在でも十分に独創的で面白い。
 
 「推理作家」アブラハム・リンカーンの作品や植草甚一、小林秀雄、江戸川乱歩らの文章も面白いが、私が特に興味を惹かれたのは瀬戸川/向井敏/丸谷才一による鼎談(「ハヤカワ・ポケット・ミステリは遊びの文化」)。ここでは、戦前の知的文化を作ったのが岩波書店なら戦後は早川書房ではないか、という提案がなされている。曰く、「フリーウェイ」だの「インターステイト」だのを「想像」するしかなかった時代に、ハヤカワ・ミステリの読者は同時代のアメリカ文化についての知識を貪るように得ていたというのだ。村上春樹なんかがまさにそうした「ハヤカワ・チルドレン」の典型とみなされている。もちろん、こうした事情は私のようなずっと若い世代からしてもなんとなく了解されていたことであるけれども、実際に当時を生きた批評家たちの口からそうした実感が聞けたのは嬉しい。
 「ハヤカワ・ミステリ」が大衆文学だけでなくアメリカ文学の重要な作家を紹介していたように、ここには戦後世代が持つ「遠い国」としてのアメリカへの純粋な羨望の眼差しが感じられる。同アンソロジーに収録された大岡昇平のエッセイは、戦中の虜囚地でウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を江戸川乱歩よりも早く読んでいたという話だが、こんなふうに外国文化を我先にと貪るように学んでいた人々と、あらゆるメディアを通じてア外国と地続きになってしまった現代の世代とでは、異国の文化を学ぶということの意味がまったく違ってしまっている。

 端的に言ってしまえば、もはやかつての意味での「外国」など失われている。私はアメリカの大学院でアメリカ文学を研究しているが、このグローバルな時代において、もはや私が日本人であることはほとんど意味をなさない。私は英語で論文を書くべきだし、アメリカを中心とする巨大なアカデミズムの中で議論をすべきなのであり、日本に帰って日本語で研究したところで、それを受け止めるオーディエンスは縮小の一途をたどっている(ぶっちゃけてしまえば、「アメリカ文学研究」を含む日本における「外国文学研究」など、もはや単なる同好会みたいなものだし、その会も少しづつ消滅している)。
 私はこのことを、単なる時代の必然として受け止めている。昨今の日本政府の動向を鑑みるかぎり、そもそもいずれ日本における大学教育自体が大きく縮小され、アメリカをはじめとしたいくつかの国々にアウトソーシングされるだろうとすら思っている。たとえば、日本はいま必死で「実用的」な英語教育を推進しているが、その成果としての「英語ができる人」はどんどん日本を捨てて海外に出ていってしまうだろう。グローバルな世界で通用する人材が、経済的にも文化的にも衰退の一歩を辿る日本に留まるメリットなどないのだから。

 ところで、今言ったことと相反するようだけれど、私個人としてはグローバルな水準の研究というものにはあまり興味がない。私は日本語で書き、日本語が読める読者に――それも中途半端にグローバルな研究を後追いしている学会にではなく、大多数の一般の日本人に向けて、書きたいと思っている。大岡昇平にせよ、丸谷才一にせよ、彼らが外国に「憧れ」たのは、単に外国が偉いと思っていたからではないだろう。彼らは日本人として書き、思考するために、他者の言葉と思考を学んだにすぎない。こうした他者との抜き差しならない関係を失った研究に、私はあまり興味がない。そこには「批評」が存在しないからだ、と言ってもいいだろう。もちろん、アメリカのアカデミズムに身をおいて、英語で書きながら、真に批評的な仕事をすることは可能だ――私は単にその能力が自分にはないことを知っているので、諦めているにすぎない。
 おそらく、私が生涯をかけて何をしたところで、その成果は日本という国とともに、滅び忘れ去られてゆくだろう。私よりも何千倍もエラい、大江健三郎だの折口信夫だのといった人々の仕事だってやはりいつかは消え去るだろう。おそらく、批評も文学も、人間の歴史の真に新しい段階においては、受け継がれることなく捨て去られるものだとすら思っている。
 そんなふうに悲観的な信念を胸の裡に納めながらも、私自身は、実は自分の仕事を幸福に思っている。なぜなら、それがとにかく楽しいもの、面白いものだからだ。私はただ、偶然生まれたこの時代においての、この一度きりの生において、自分が面白いと思える遊びを見つけただけだ。

 などと、丸谷の本からだいぶ離れたことをつらつらと書き連ねているが、私はこのアンソロジーを読んでいて、そこに並んだ顔ぶれが、ずいぶんと楽しそうにしているなと思って、ちょっと羨ましくなると同時に、親近感を抱いてしまったのである。

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