北条裕子「美しい顔」

 私は基本的に、作品を貶すのは嫌いである――と言いつつ、つまらない作品や酷い出来の作品について、しょっちゅう貶してる気がするけど、それはたまたま交通事故に合ったみたいに、試しに読んでみた/観てみたらツマラナすぎて、それで思いの丈をぶちまけてしまっているだけである。しかも、つまらない作品について時間を使ってもしょうがないので、わざわざブログに感想を書くようなことはめったにしない。
 と、こんな前置きをしてしまった以上、タイトルにある作品、北条裕子の「美しい顔」が私にとって大変つまらなかった作品であることは明らかでしょう(笑)。
 いやー、なんかネットで無料公開されていたのでついつい読んでしまったのですが、まぁ作品についてはもうどうでもいいんだけど、驚きなのはこれを「とてつもない傑作が現れた」とか「こんなに新しい/挑戦的/野心的/etc...な作品は久々だ!」とか言って褒めそやしてる大御所の方々――マジですか?けっこうな高齢の人もいると思うんですが、長い人生かけてずーっと文学を読んできて、「美しい顔」を読んでそこまで感動するって、いったい今まで何を感じ、考えて生きてきたのでしょうか。


 私が思うこの作品の「つまらなさ」をざっとあげると:
1. よくある「未熟な未成年の自意識の病」を扱っているだけで、「すべての小説家志望の人が最初に書いてしまう」タイプのもっとも平凡な物語であること。この作品、骨組みだけ見ると「未熟な自我を抱えた主人公」が「母の死」を経験して「同じく喪失を経験した年上の女性(隣の奥さん)」に説教されて、前向きに生きようとする、という形なんですが、こういう作者が「未熟な自分」と「その未熟さを批判する自分」に分かれて「自分で自分を説教する」というのは小説の誕生にまで遡れるもっとも普遍的な雛形であり、もう徹底的にやり尽くされているわけです(太宰とか芥川とかトーマス・マンとか)。この小説に「驚愕」して「新しさ」を感じたという文壇の人々はマジでおかしいですよ。言ってみれば「パン」に「バター」を塗った料理(?)を手にとって「こんな独創的な料理はみたことない!」って言ってるのと一緒ですからね。

2. 主人公をはじめ、登場する人物が非常に平坦で、どんな人物で、何を考えて、どんなふうに生きてきたのかが全然分からないこと(みなさんは主人公がどんな少女か想像できますか?趣味は?友人関係は?好きな人はいるの?好きなTV番組は?食べ物は?将来の夢は?etc...)。ゆえに、いきなり説教をかましてくる「隣の奥さん」など、取って付けたような人工的なキャラクターが多い(ふるーい批評用語で言うなら「フラット」なキャラクターしかいない)。

3. 主人公の内面ばかりが描かれて、震災という状況において周囲の人間たちが何をしているのか、どのような存在なのかがまったく描かれていない点(主人公はしきりに「なんで私なんかが生き残ったのだろう」と言いますが、そのわりにはあまりにも他者に無関心ではないでしょうか)。

4. これは上記の問題の一部とも言えるんですが、「メディアの前であえて消費される自分を演じ続けることで母の死という現実から目をそらす」というのが物語の大部分を占める語りのほとんど唯一の効果なんですが、自分とメディアの二項対立に引き篭もって、自分と同じように大切な人を失った/失っているかもしれない大勢の人々が一切視野に入ってこない不自然さ。これは「主人公が未熟だからだ」という意見があるかもしれませんが、あれだけ頭の回る高校生でその程度のことも分からず「我を失う」というのはリアリズム的にもちょっとおかしいし、そもそも友達関係とか周囲の人間がほとんど描かれていないのは、作者が小説が「小説らしくなる」部分を意図的に避けているからではないでしょうか。要するに難しいことは書かなくていいや、というのが透けて見える。その最たる部分が、(これまた文学としてはあまりに単純に無垢の象徴として用いられている)7歳の弟にわざわざ母親の死体を見せる場面。私としては、こういう誰がどう考えても書くのが難しい部分(7歳の男の子が震災の最中に上半身だけの母の死体をみつめるとはどんな経験なのでしょうか)をしっかり書いてみせるのが文学だと思うんですが、こじらせた自意識だけは延々と語るのにこういうところはあっさりと省略してしまうというのは、ずいぶんと楽をしてるなぁと。

5. というわけで、この小説、全体としては普通の大衆小説としか思えませんでした。震災を食い物にするメディアを批判しているのに、作品自体がいかにもメディア的なメロドラマにしかなっていない点が最大の瑕疵ではないでしょうか。確か小説の後半で、「日常こそが被災だ」というような文言があったと思うのですが、その日常に関してダイジェストでしか語られていないところに、この作品の問題点が凝縮されていると思います。私が編集者だったら、被災直後を扱っている小説の大部分を30〜40枚ぐらいに圧縮させて、その後の「日常」をむしろメインとして書くように、作者に提案したでしょう。「純文学作品」と名乗る以上、それは当然のことではないでしょうか。面白くもなんともないであろう「日常」を問題化して、読ませてみせることに、19世紀以後の近代小説の書き手たちは才を競ってきたのですから。


 ところで、小説のなかで思わず読み進めるスピードがグッと落ちて、強烈なイメージに心が締め付けられたシーンがありました。体育館いっぱいに運び込まれ、並べられた遺体を叙述する部分です。文学における「描写」の力が発揮された素晴らしい部分だと思うんですが、なんとこれがドキュメンタリーからの盗用であったと。。。
 まぁ文学にパクリはつきものなので、ちょっとパクったぐらいで良い作品の価値が下がるわけではないんですが(道義的にはダメだけど)、この作品の場合、やっぱりどうしてもこのイメージの崇高さはパクリ元のドキュメンタリーから来ているとしか思えない。そういうところも、かなりがっくりくる作品でした。

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